半村 良 都市の仮面 目 次  都市の仮面  静かなる市民  村 人  生命取立人  旧約以前  おまへたちの終末 [#改ページ]   都市の仮面     地下道  狭い階段を降りきると、いくらか幅の広い、薄汚れた通路へ出る。その地下の道路は心持ち下り勾配《こうばい》で、進んで行くと更に幅の広い地下道へ出る。  そこが新宿《しんじゆく》 駅西口から四谷《よつや》方向へ伸びた長大な地下道の突き当たりで、目の前に地下鉄新宿三丁目駅の改札口があり、右手は伊勢丹《いせたん》デパートの入口になっていて、地下道を歩いて来た男女の大部分がその入口ヘ吸いこまれて行く。  駒井啓介《こまいけいすけ》は伊勢丹の入口の前を通りすぎながら、ちらりと腕時計を見た。  十一時二十七分であった。時間が早いので、デパートヘの客は、中年の女たちと学生風の若い男女ばかりだった。 「昼飯、すませて帰りましょうか」  駒井は並んで歩いている野村《のむら》にそう言った。  野村は緑《みどり》事務機販売の先輩で、この春係長に昇進したばかりである。 「うん……」  野村は生返事をした。駒井は機嫌《きげん》を窺《うかが》うような眸《め》で、ちらりと相手の横顔を見た。  二人とも営業部員で、野村が係長になって以来、駒井はいつも彼と行動するようにきめられている。つまり、野村係長の部下というわけである。ただし、野村の部下は今のところ駒井だけであった。 「ここを歩いたほうが早いですよ」  駒井が言い、野村がまた生返事をする。  朝一番で池袋《いけぶくろ》の得意先へ行った帰りなのである。緑事務機販売の前身は文房具の会社で、今でも得意先に対する文具消耗品類の供給部門が残っている。二人はこの数週間、池袋にある古い得意先へ、最新型の湿式複写機を売り込もうと苦心していた。今日がその結論の出る日で、気負《きお》いこんで訪問したのだが、はっきり断わられこそしなかったものの、体《てい》よく購入延期を申し渡されたのだった。  中っ腹の野村が、先方の門を出るやいなや、通りがかったタクシーに手をあげ、神宮《じんぐう》通りを新宿へ向かったのだが、ひどい渋滞ぶりで動かばこそ……車の中で野村の不機嫌さはつのる一方だった。  やっとの思いで新宿|三光町《さんこうちよう》あたりまでたどりついたが、そこから西口までが更にひどい混《こ》みようで、駒井が運転手の要求をいれて降りてしまったというわけなのだ。 「なあ駒井」  地下道を歩きはじめてしばらくすると、野村はぼんやりとした表情で前をみつめながら言った。 「何ですか」 「これからお前、どうするんだい」 「え……」  駒井は咄嗟《とつさ》に社内の情勢を思い泛《う》かべながら、野村の顔をみつめた。 「売り込み先は、まだ係長のノートにたくさん書いてあるじゃないですか」  入社してまだ一年と何か月かの駒井には、内部のくわしいことは判《わか》らなかったが、今朝の結果がよくなかったにせよ、そうさし迫って締めつけをくわされる状態ではないはずであった。 「莫迦《ばか》……」  野村は苦笑し、軽く駒井の肩を叩《たた》いた。 「そんなことじゃない」  不機嫌さが消えていた。駒井はほっとしたように尋《たず》ねる。 「何のことです」 「人生さ」 「人生……」 「ああそうだよ。お前はまだいいよ、若いからな。俺《おれ》なんか、あと二年で三十だぜ。嫌《いや》だよなあ、三十ってのは」  駒井は二十六。野村は二十八。ふたつしか違わないが、野村はいつもひどく年上のようなことを言う。高校、大学と陸上競技の選手だったせいかもしれない。先輩、後輩の関係のやかましい生活の癖を、サラリーマンになっても持ち越しているのだろう。 「人生なんて、三十になったら考えますね」  駒井はからかい気味に言った。駒井は読書好きで、そういうことになると、野村よりずっと陰影に富んでいる。 「若いんだなあ」  野村が嘆息し、駒井は通りがかった若い女を振り返るふりをして、失笑をおし殺した。 「係長らしくもない。弱気ですね」 「俺だって、たまにはくたびれるさ。でもな、今のタクシーの中でずっと考えてたんだ。嫌な予感がするよ。つまんねえ人生なんじゃねえかなあ……」  野村は自分の未来を遠望しようとするように、長い地下道の先を眺《なが》めている。 「予想なんて当たるもんですか。ねえ係長、いいほうの予想をして、当たったことあるんですか」 「ん……」  野村は意外そうな表情で駒井をみつめる。 「ないでしょう」  駒井が押しつけるように言った。 「うん。ない」 「ほら、そうでしょう、人生なんて、そんなもんですよ。肝心《かんじん》なときにはいつも予想が外《はず》れるんです。いいほうにも、悪いほうにもね」 「先週の3・4みたいにか」  野村は先週買った馬券のことを思いだしたらしく、そう言って笑った。 「うん、そうだな。俺は腹が減ってるらしい。昔っから、腹が減ってると調子が悪いんだ」  野村は両|肘《ひじ》を張り、肩を二、三度まわしながら言った。いつもの大ざっぱな表情に戻っていて、人生論をはじめようとしたにしては、拍子抜けするほど、あっけらかんとしていた。  あのタクシーの中で、この男はいったい何を考えていたのだろう……駒井はふとそう思った。  追い抜くもならず、空《す》いた道へ逃げるもならず、湧《わ》きあがるいらだちをじっと抑《おさ》えつけながら、ひたすら動きだす順番を待っている姿を、自分の人生に重ね合わせてみたに違いなかった。  なるほど、と駒井は思った。  そういう野村を、駒井はいずれ近い内に追い越してみせるつもりであった。駒井は、それまで単なる社内の先輩にすぎなかった野村が係長に昇進すると、その翌日から、係長、係長と呼びはじめた。  てのひらを返すようなその態度が、決して見よいものでないことは、充分に承知していた。しかし、大学の運動部員がそのままサラリーマンになったような野村には、翌日から係長と呼んでやることが、いちばん効果的な接し方であると考えている。  そのまま一生野村の部下では仕様がないが、彼を追い越すことで、その浅薄な態度も帳消しになる。追い越したあとでも、以前の先輩、上司としての態度を保ちつづければ、ことによっては美徳にもなりかねない。世間とはそういうもので、何事も長い目でみなければ判りはしないのだと思うのであった。  野村を追い越すのはわけのないことだ……半歩遅れて、相手のたくましい肩を眺めながらそう思った。だが、それはゲームにすぎないようであった。そのさきに、古参の係長が五人いて、課長代理がいて課長がいて部長がいて……。全部を追い越すにはかなりの時間が要《い》る。仮に全部追い越して先頭に出てみたとして、いったいその先は……緑事務機販売は、所詮《しよせん》もと文房具商の、ちっぽけな会社にすぎない。 「どうした」  野村が言った。 「急にしおれたな。お前も腹が減ったろう」  ふたりとも独身で、朝食はめったにとらない習慣だった。  ……お前と一緒にしてくれるな。駒井はそう言いたかった。 「ええ。西口へ行ってから、どこかへ入りましょう」  オフィスのあるあたりでは、安くて量のある昼食にありつくのがひと仕事だった。どの店も、正午をまわったとたん超満員になる。 「おい……」  野村が立ちどまってふり返った。地下道の幅がいっそう広くなり、人通りが少し減ったあたりだった。両側がデパートのショー・ウインドーになっていて、足の下は地下鉄新宿駅のプラットホームのはずだった。 「なんだよ」  立ちどまっている駒井のところへ、三歩ほどひきかえして来て、野村が言う。 「またいますよ」 「何がだ」 「あれ……」  駒井は顎《あご》をしゃくってみせた。 「なんだ、酔っ払いか」  珍しくもない、と言った風に、野村は歩きはじめた。駒井もそれについて歩きだしながら、 「どういうんですかねえ」  と言った。 「酔っ払いかルンペンさ」 「ああいう連中が増えましたねえ」 「何をして食ってるんだろうな。昼間っから地下道で寝てるなんて」 「よく見かけるけど、どうも酔っ払いじゃないようですよ」 「ルンペンか。それにしてもいいご身分だ。天下泰平《てんかたいへい》だよ」 「係長があんなこと言うから、あそこで寝てる奴《やつ》が急に気になったんですよ」 「何か凄《すご》く強い酒でも呑《の》んでるんじゃないのかな」 「シンナーやボンドでラリる年頃《としごろ》でもないですしね」  駒井が言うと、野村は腕時計を眺めてから、ショー・ウインドーの前で肘枕《ひじまくら》をして寝ている男をふり返った。 「いつも見慣れているから、気にならなくなっているが、そう言われるとたしかに変な連中だな。ルンペンにしては身なりがいいし」 「新宿にも、まっ黒に汚れたのがいますけど、そういうのとも少し違うみたいだし」 「ゆうべ酔っ払ったまんまなのかな」 「いや、違うでしょう。午後の三時四時に寝てるのを見たこともありますからね」 「お前は変なことに注意深いんだな」 「いつも同じ人間とは限らないようですけど、寝相が似てますね、なんとなく」 「ほう、そうかな」 「あんまり卑屈な感じじゃないでしょう。たいてい道路のはしに、壁のほうへ顔を向けて横になってるけど、肘を枕に、背中を少し曲げて、膝《ひざ》をやや折って……僕らでもうたた寝をするとあんな恰好《かつこう》になりますね」 「そう言えば、わりと威張って寝てやがるな」 「威張って、と言うよりは、ふて寝風ですけど、それにしても、乞食《こじき》や宿なしの寝かたとは違うみたいで」 「やっぱり酒か、でなければ薬だな」 「そう言い切れますかね」 「違うってのか」 「時間がおかしいでしょう。薬なら、どうせ麻薬か、いずれにしても非合法なものでしょう。売るほうだって、あんな所で寝られちゃ困るでしょう。酒だとしても、帰る家のある奴が朝から新宿で呑んで、お昼になったかならないうちに地下道で寝ちまうもんですかね」 「どう転んだって、俺はあんな風にだけはならないな」  野村は自信たっぷりに言った。 「それはそうでしょうけど、ちょっと興味ありますね。ああいう人生ってのは、どんなんでしょうね」 「知ってどうする」  野村は先輩じみた眸で、駒井をとがめるように言った。 「参考にならんよ。それより飯を食って、次の訪問先のリストでも作ろう」  地下道を左に曲がるとき、駒井はもう一度ふり返って眺めた。寝ている男は太い柱のかげになって見えず、急ぎ足で行き交《か》う人々の姿が、その幅広い地下の道に重なり合い、とらえどころのない色の動きとなって駒井の眸にうつっていた。     セールスマンの休日  昼食をすませてオフィスへ戻り、大げさなスローガンや売上のグラフをベタベタと貼《は》りつけて、どことなく学芸会の会場じみた部屋で、二人が大学ノートを間に額《ひたい》をつき合わせて相談していると、廊下を通りがかった課長代理が声をかけた。 「おう、帰って来てたのか」 「いいえ、もうすぐまた出かけます」  野村があわてて答えた。課長代理はそれを無視し、駒井へにこやかに言う。 「奮戦中らしいな」  近くの椅子《いす》に坐《すわ》って煙草《たばこ》に火をつけた。 「頑張《がんば》ってます」  駒井は愛想よく答えた。 「しかし、君たちはよくR商事へはいりこめたもんだ。課長が感心してたよ」 「R商事ですか」  野村は驚いて駒井の顔をみた。R商事と言えば日本屈指の大企業である。駒井や野村が相手にするのは、せいぜいが三流の紡績会社か、縫製メーカー、製菓会社程度で、それも当たれる所は当たりつくし、残っているのは小さな不動産会社や広告代理店などでしかない。R商事など考えたこともないし、野村のノートのどこにも書いてない。 「みんな必死で競争してるから、うまく行くまで隠すのは当然だが、もうとっくにバレてる。部長のところへ、十時ごろじかに電話が入ったそうだよ」 「部長のところへ」  野村が奇声を発した。課長代理は、してやったりという顔で、駒井の肩を叩いた。 「よくやったな。大変だったろう」  冗談じゃない、という表情で駒井は野村をみつめ、野村は幾分うらめしげな眸でそれを見返した。 「とにかく課長のところへ行ってくれ」  課長代理はつけたばかりの煙草をもみ消すと、駒井の肩をかかえるようにして立ちあがった。セールス要員にハッパをかけるのが彼の仕事で、それだけに駒井たちにとってはいちばんけむたい存在なのである。駒井はとんでもない誤解におびえながら、仕方なく一緒に部屋を出た。  駒井がいなくなると、ひとけのない部屋の中で、野村が煙草を吸いはじめた。一服吸って下《した》 唇《くちびる》を噛《か》み、じっと煙のたつ煙草の端をみつめている。 「あの野郎」  つぶやいた。駒井という男が人一倍調子がいいのは承知していた。いつか寝首をかかれるようなことにならないとも限らないと、一応警戒もしていた。だが、それだけに頭の回転がよく、パートナーとしては頼りになるのであった。自分の片腕として、ずっと共同戦線を張って行けたら、この部屋からも案外早く出られるのではなかろうかと、あてにしはじめた矢先なのである。  野村は部屋を見まわしている。オフィスにつきものの、例の灰色の、一人用のスチール・デスクはひとつもない。横に細長いテーブルがずらりと並び、折たたみ式の椅子が、ひとつのテーブルに八ツ……まるで講習会の会場のような具合である。  誰《だれ》だって、こんな身分から早くぬけ出したいにきまっている……野村はそう思いながら顎を撫《な》でる。サラリーマンになったら、せめて自分の椅子と机を持ちたいものだ。だが、会社のやり方に文句を言ってもはじまらない。セールスマンはセールスに歩くのが仕事で、オフィスに坐っていては商売にならない。従ってデスクは要らない。欲しがっても仕方がないし、デスクについても野村は帳簿もつけられないのだ。成績をあげて管理職になるより方法がない。それは駒井も同じことで、だから抜け駆けも、やむを得ないのかもしれない。だが、フェアーではない。いやしくもスポーツマンであれば、そんなことはしないはずであった。  野村はため息をつき、R商事をものにしたという駒井を、つくづく羨《うらや》ましいと思った。もうここは大学ではない。仲間は運動部員ではないのだ……。 「妙なはなしですよ」  戻って来るなり、駒井はそう言って擽《くすぐ》ったそうに笑った。野村は黙って煙草をくわえた。 「どこをどう間違ったんだか、R商事から僕に名ざしで電話があったんだそうです」 「で……」  野村は煙をさけ、顔をしかめて尋ねた。 「あした来いですって」 「どこへ」 「R商事の本社へですよ」 「お前、コネがあったんだろ」 「とんでもない」 「隠さなくったっていいんだよ。俺とお前の仲じゃないか」 「ありませんて……やだな、僕は毎日ずっと係長と一緒じゃないですか、そんなひまがあるもんですか」  駒井はムキになって弁解した。 「いいさ、明日行けば判る」 「ええ、何かの間違いです。そうにきまってますよ」  駒井はしばらく考え、野村の機嫌をとるような言い方で続けた。 「だって、考えてごらんなさい。R商事だって事務機を扱ってるんですよ。外から買うわけないでしょう」  野村はハッとしたように顔をあげ、しばらくしてからニヤリと笑った。 「そりゃそうだ。俺たちから買うわけはない。間違いだ。何かとんでもない間違いが起こってるんだよ」 「あした一緒に行きましょうよ、面白いから。相手はR商事じゃないですか。どんな恥かいたって、日本一が相手ならどうってことはない」 「そうだ。それに、まかり間違って、その話が本物だったら大穴だしな」 「何台買ってくれますかね」  駒井は調子に乗っているようである。 「でかい会社だよ、お前。中へ入ったことあるか」 「大手町《おおてまち》のあのビルでしょ」  そう言って駒井は首をすくめた。 「一度もありませんよ、あんなところ」 「俺もさ。入るだけでも面白いや」 「そうですね。何時頃行きましょうか」 「午前中がいい。うちの上の連中だって、R商事なんて知りはしないんだ。一日中待たされたと言ったって通るよ。また映画でも見ようじゃないか。間違えた誰かが悪いんで、俺たちのせいじゃねえや」 「社員食堂みつけて昼飯食っちゃいましょうよ。以前週刊誌のグラビアに出てましたよ。凄い食堂だから……」 「そいつはいいや。あしたは休み……あさってから新規まきなおしだ」  二人は顔を見合わせて笑った。     美女と老人  翌日、午前十時。  駒井と野村は皇居のお濠《ほり》に面したR商事本社の正面玄関にいた。 「どこかに受付があるはずだよ」  野村はキョロキョロとみまわして言った。道路から自動ドアを通って入った内部は、つやつやと磨きたてた大理石《だいりせき》の床《ゆか》で、鉢植えその他の装飾物は何ひとつなく、真正面に大きなエレベーターが四基、重厚な扉《とびら》をとざして並んでいる。 「この入口はおえらがた専用らしいな」  野村が臆《おく》したように言う。 「こっちは呼ばれて来たんだ」  駒井は居直ってしまったようだった。余りにも桁違《けたちが》いの雰囲気《ふんいき》に、同じサラリーマンとして敵愾心《てきがいしん》を湧きあがらせたらしい。 「あそこが受付らしい」  左手にドアがひとつあり、そこにごく小さな文字で、受付、と書いてあった。 「社長室みたいな受付でやがる」  野村は呆《あき》れ顔だった。  こうなると駒井のほうが度胸がいい。ずかずかと歩み寄ってドアを押した。押してもあかないのであわてて引く。力が入りすぎて、必要以上に大きくあけ放った。そのまんま化粧品のCMに出してもおかしくないような品のいい美女がすらりとたちあがり、 「いらっしゃいませ」  と言った。 「あの……」  勢いよく言ったきり言葉が途切れ、駒井は情けない表情で野村のほうをふり返った。野村は関係ないとばかり、エレベーターの標示ランプをみあげてしまう。  駒井は左手で上着の右の内ポケットを探り、次に右手を左の内ポケットへつっこみ、最後にやっと名刺を外の胸ポケットに入れてあるのを思い出して、一枚抜き出した。 「あの……こういう者ですが」  美人が受け取ろうと白い指を差しだした時、駒井は名刺の文字が自分のほうへ向いているのに気づき、あわてて引っこめて向きを直した。美人の手が駒井の目の先で出たり引っこんだりする。 「すいません」  駒井は生唾《なまつば》をのみこんだ。 「ごめんなさい。あの、向きが逆だったもんですから」 「ご丁寧に、恐れ入ります」 「どう致しまして」 「それで、ご用件は……」 「あの……」  また途切れる。喉《のど》まで出かかっている言葉が引っかかって、駒井は思わず声をのみこんでしまう。美人が小首を傾《かし》げて駒井の言葉を待つ。その、かすかに泛かんだ笑いに気づくと、耳たぶが爆発したようになり、赤い爆風に目がくらんで、何が何だか判らなくなった。  何を喋《しやべ》ったのか自分でもはっきりしなかったが、四階に総務部の受付があると教えられ、ドアが閉た。駒井はふうっと大きなため息をして、エレベーターの前へ戻った。 「四階だって」 「そうか」  野村がボタンを押すと、エレベーターはさっきから一階で停《とま》っていたらしく、するりとドアがあいた。  並んで入り、野村が四階のボタンを押す。 「大美人だな。あんなのが毎日電車で通《かよ》ってるのかな」  野村が言う。 「そうでしょうね」 「嫌だな、ふつうの会社にあんなすげえ女がいるなんて……社長のナニじゃないのかな」  駒井は思わず、シッ、と言った。なぜ、というように野村が駒井を見る。駒井の目はエレベーターの階数ボタンの上にある、緊急通話口をみつめていた。 「まさか……」  野村が駒井の耳に口を寄せてささやいたときエレベーターがとまり、ドアがあいた。  外へ出ると、足もとがぐらりとしたように感じ、駒井はあわててもうひと足探った。別に危険はなく、ただ踏みなれぬほどの厚さの絨緞《じゆうたん》が敷きつめてあるだけだった。  その奇妙なステップを、真正面の壁ぎわにある机の向こう側で、受付の美女に劣らぬ美しい女が、いぶかしげにみつめていた。ただし今度は少し年増《としま》っぽく、小紋《こもん》を着せて髪をアップに結わせれば、銀座で日給一万円保証という感じである。 「いらっしゃいませ」  ちゃんと椅子から立ち上がって言う。駒井も今度は一度で名刺を抜き出せた。向きもちゃんとしている。女はちらりと手もとのメモに目を走らせ、 「はい、伺っております」  と言って机の向こう側から出てくると、斜め左前方に立って案内した。  エレベーター・ホールから右へ、焦茶《こげちや》の厚い絨緞の上を進み、左側のドアをあけた。 「どうぞ、しばらくお待ちくださいませ」  中へ入ると美女がドアをしめる。二人は立ったまま中を見まわした。どでかい応接セットがあって、あとは何の飾りもない。飾りがなくても充分飾りになっていた。  しいんとして物音ひとつない。 「坐ろうよ」  野村が言った。部屋をみまわしながら、黒革の大きなソファーに体を落とし、ヒャッ、と叫んだ。それを見て駒井は用心しながら、そっと腰をおろした。そっとおろしても不安になるくらい、ソファーは際限もなく体を吸い込んで行くように思えた。 「こんなソファーに坐ったことあるかい」  野村がささやいた。駒井は黙って首を左右に振る。 「俺もはじめてさ」 「ねえ」 「なんだい」 「ここじゃなさそうですね」 「何がだ」 「社員食堂ですよ」  駒井はそう言って首をすくめた。どうやらここは特別な一画らしいのである。いくらR商事でも、一般社員までこんなオフィスにいるはずはない。  野村もあきらめたようにうなずいてみせる。  しのびやかなノックの音。 「はい」  ふたり揃《そろ》って返事をした。ドアがあいて、すらりとした長身の、たっぷりとゴルフ焼けのした青年紳士が姿をあらわす。 「駒井様でいらっしゃいますか」  左手に自分の名刺を一枚持ち、野村と駒井の顔をみくらべながら、どっちつかずに言った。 「はい、駒井です」  駒井が立ち上がり、丁寧に一礼した。それに続いて野村も立って頭を下げる。 「どうぞおかけになって下さいませ。わたくし、総務部の立花《たちばな》と申します」  立花は駒井の前のテーブルへ、恭々《うやうや》しく名刺を差しだした。駒井がまた名刺を出す。 「それで、大変失礼でございますが、こちら様は……」 「ええ」  美女相手より応対がだいぶ楽だった。 「僕の上司でして、野村係長でございまして……」 「よろしくお願いいたします」  野村が名刺を出した。立花は受け取ってちらりと眺め、 「ご苦労さまでございます」  と妙なうすら笑いを示した。 「実はお相手いたしますのはわたくしではございませんで、駒井様には別室で……」  駒井は野村を見た。野村はかすかに顎をしゃくって、適当にやれと合図をした。内心ほっとしているらしい。それでいて、どこか惜しそうな表情も泛かべている。 「では……」  駒井は立ちあがった。 「どうぞこちらへ」  立花は廊下へ出てドアをしめると、歩きながら言った。 「お一人でおいでくださるよう、ご連絡申しあげたつもりでおりましたのですが」 「そうですか」  課長は特に一人きりでとは言わなかった。しかし、呼ばれたのは駒井だったし、二人で行動するのがたて前だったから、なんとなく野村と一緒に来ることになってしまったのである。  立花がだいぶ廊下の奥深いところへ行ってから、とあるドアをノックする。ドアをあける。 「お連れしました」  中からは無言。 「どうぞ……」  立花が体をひらいて駒井を送りこんだ。どう見ても重役室……サイドボードにゴルフのトロフィーが並んでいて、巨大な木のデスクに回転椅子。  書架に横文字の革表紙がぎっしりとつまっていて、さっきのと似たような応接セット。  助教授の父親、と言った感じの、ごく品のいい白髪の老人が無表情で駒井を迎えていた。 「駒井君ですね」  右手をさしだして握手を求められた。無表情だが品がいいから柔和《にゆうわ》に見える。釣《つ》られて握手をすると、なんとなく暖かいものが通い合った感じになった。 「あの……」 「何です、駒井君」  右側から肩をかかえるようにソファーの所へ連れて行かれ、坐らされた。 「あの……、はじめ、まして……」  自信なくそう言う。相手の態度は明らかに旧知の、それも親戚《しんせき》の誰かかでもあるような具合なのだ。  老人は笑った。若々しい声だった。 「たしかに初対面ですなあ」  そう言ってまた笑い、駒井の正面に腰をおろした。 「しかし、わたしと駒井君とは、深いご縁でつながっておる間柄なのですよ」 「はあ……そうですか」 「見たところ、健康状態もよろしいようですな」 「はい」 「たしか、お母さまは一昨年《おととし》ですか、おなくなりになって」 「ええ」 「残念でしたなあ。これからいよいよ君が親孝行をしてさしあげるところでしたのに」 「ええ」 「お父さまは停年で、その後農協のほうのお仕事を」 「はい。何せ田舎のことですから、いろいろと融通がきくようでして、毎日元気に働いているそうです」 「それは何よりですな。ところで、一緒においでになったお連れの方は」 「ええ。会社の先輩で野村係長です」 「ご親戚でしたかな」 「いいえ」 「駒井君の親友というわけですか」 「いや、ただ、会社の仕事の上でいろいろと教わっておりますもので」 「ああ、そういうご関係……で、その方にはひと足先にお帰り願ってもかまわんでしょうかな。余りあそこでお待たせしても悪いのでは」 「はい。結構です」 「では、ちょっと」  老人は立ちあがり、デスクへ戻って電話をとりあげた。  どうやら野村は追い返されることになったようであった。     幸運と幸福  約三時間後。  駒井がR商事の正面玄関から外へ出ると、疲れ切ったという顔つきで、野村が駆け寄って来た。 「いや、参ったぜ、まったく。おん出されちまったんだからなあ」 「すいません、係長」 「お前と離ればなれに帰ったらマズいしよ。腹は減ってくるし、どうしようもないじゃないか。お前、飯食ったか」 「すいません。ご馳走《ちそう》になって来ちゃった」  野村はパチンと指を鳴らした。 「仕様がねえなあ。どこかでつき合え」 「今ごろになれば空いてますからね」 「ちぇっ。のんきなこと言いやがって」  野村はいまいましそうに歩きだす。 「で、どうだった」 「それがさっぱりわけがわからない」 「どういうんだい」 「東和《とうわ》光学のB型を四十台買うって言うんです」 「四十台……ほんとか、おい。だってお前、東和の製品はあそこで扱ってるんじゃないか」 「でもうちから買うんだそうです」 「R商事で使うのか」 「さあ。とにかくR商事が買うんだそうです。これが発注書……」 「どれ、みせてみろ」  野村は立ちどまり、R商事の封筒に入った薄い紙を引っぱりだした。 「なんだ、これは。伝票上のやりとりだけって言うことじゃないのか。R商事系の東和光学から、B型をうちが四十台仕入れたことにして、その四十台をそっくりR商事の電子機器課へ売り渡す……納入は東和光学が直接やる。うちはノー・タッチで、納入が終わったら翌月のしめで銀行振込……つまりうちはマージンだけいただきか」 「とにかく売れちゃったんです」 「なんだ、この商売は。それで、中の傑《えら》いのがお前の知り合いか何かだったのか」 「さあ……」 「さあじゃねえよ。会ったんだろ、誰か傑いのに」 「ええ。傑そうでしたよ」 「誰だい」 「人に喋る必要はないって……」 「俺には教えたっていいだろ」 「喋る必要はない……そう言うんですけどね、どうも喋るな、という命令みたいで」 「ふうん……」  野村はキナ臭い顔をした。 「まあいいや。四十台も一遍《いつぺん》に売れたんだから文句はねえや。なあ、飯をつき合えよ」 「ええ」  二人は国電のガードのほうへ歩いて行く。 「なあ駒井。俺と一緒に売ったんだろ、四十台……」 「ええ、そうですよ」 「そうしてくれよなあ。俺とお前のコンビで四十台売ったんだ。報奨金ががっぽりで、有給休暇がとれて、その上来月から接待費の枠《わく》までもらえるんだぞ。でも、まずいこともあるな。この分じゃ、お前もすぐ係長になりそうだ」 「まだですよ」 「なったら俺とのコンビは解消だ」  野村は心細そうな表情になっている。 「ねえ、係長」 「なんだ」 「会社へ車ですっとんで帰りませんか。タクシー代は僕が払うから。こいつをあの課長代理に叩きつけてやってから飯にしたほうがうまいじゃないですか。なんならビールつきで」 「それもそうだな。そうするか。でも地下鉄にしよう。タクシー代は貸しとくから、ビールをおごれよ」 「それはいい。そうしましょう」  二人は濡《ぬ》れ手《て》で粟《あわ》の四十台にほくほく顔で、地下道へ駆けおりて行った。  だが、電車に乗ると駒井は急に無口になった。  幸運ではあるが、とにかく奇妙な出来事だったのである。  あの白髪の老人は、遂《つい》に名前を言わなかった。駒井の出身地から父母の消息まで、一応知っている様子だから、素直に考えて縁つづきと思えなくはない。だが、あの程度のことであれば、興信所の調査でもすぐに判りそうだ。どうも駒井には、あの白髪の老人が親類とは思えない。父親が故郷の中学の国語の教師だったから、教え子という線もあり得るが、それではまるで年齢が合わない。駒井の父親のほうが年下のはずであった。  何か気づかずにR商事のためになることをしたのだろうか……そう考えてみても、一向に思い当たる節はない。  ひょっとすると、誰かお傑方《えらがた》の娘に見そめられたのではなかろうか……しまいには、そんな妄想《もうそう》に近いことまで考えてみて、案外そんなことかも知れないぞと思ったりした。  それなら身上調査もするだろうし、明日の健康診断の意味も判る……白髪の老人は、明日もう一度商事をたずね、医務室で健康診断をうけるように命じたのだった。だが、複写機四十台の発注以外は、すべて秘密にしておくよう約束させられている。秘密さえ守れば、もっとすばらしいことが起こるはずだと老人は言っていた。  R商事が相手なら、命を賭《か》けても惜しくはないと思った。うまく行ってR商事の社員にでもなれたら、どんなにすばらしい気分だろう。大学を出てすぐ故郷の市役所に勤めたのが田舎ぐらしが嫌になって東京へ出るについては、父親ともひともめしている。R商事に入れたとなれば、その父親にも大威張りで会えるはずだった。  とにかく東京は大都会だ。夢のようなことが起こる可能性もある。それがいまこの身に起こりつつあるのだ。駒井は自分にそう言い聞かせ、内ポケットの発注書を、上着ごしにそっとおさえた。  新宿へ着いて、腹を空《す》かせた野村と小走りにオフィスへ向かった駒井は、意気揚々とその発注書を上司に渡した。課長も課長代理も、ただひたすら駒井の戦果をほめたたえるだけで、野村はその傍《そば》でしょんぼりしてしまった。駒井がいくら野村との共同作戦だと言っても、お前の仲間|想《おも》いはよく判っている、という様子で一向に信じてくれない。 「そう、この件に関しては野村係長のアドバイスも充分に役だった。うん、二人とも立派だ。しかし、それが係長の役目だからな。まあとにかく、駒井君、よくやったな。おめでとう……」  そんな調子で終わってしまった。 「いいんだ、俺は」  野村は駒井に哀《かな》しげな顔で言った。 「悪いですね、ずいぶん頑張ったんですけど」 「いいよ、お前は気にするな。平気さ、俺は。判ってんだよ。あいつら、二人の手柄にすると、出すもの余計出さなきゃならないだろう……上にゴマばかりすりやがって。判ってんだよ」 「なんとかしますから」 「いいんだって。それより俺、飯食ってくる。腹減っちゃって、どうにもこうにも」  実際、野村の目は少し落ちくぼんでみえた。憐《あわ》れっぽく両肩を落とし、野村は階段を降りて行った。  駒井はそれを見送り、首を振った。誰かがうまく行くと、誰かがうまく行かない。世の中というものは、そういうものだと思った。     人 材 「突然呼びだして複写機の発注をしたり、すぐまた健康診断をさせたり、ずいぶん妙なことをすると思っただろうね」  白髪の老人が、きのうの部屋でそう言った。きのうと違うのは、立花という男が一緒にいることだった。 「ええ、しかし、喋るなとおっしゃるからには、余りお聞きしないほうが秘密は守りやすいですから」  駒井はそう答えた。 「ところがそうは行きませんよ、駒井君」  いちいち老人に駒井君と呼ばれるのが耳ざわりだった。必要以上に親しげで、その品のいい笑顔と一緒でなかったら、かなり怪しげな感じなのではないだろうか。……駒井は立花と老人の顔を交互に眺めながらそう思った。 「なぜわたしらがこういうことをするか、知って置いてもらわねば困る」 「必要ならうかがいます」  一日たった今日は、駒井もだいぶ落ち着いている。 「はい、お話ししますよ」  老人はゆったりとソファーにもたれ、パイプをいじりながら言う。 「あの四十台の発注は、緑事務機販売に対する、君のトレード・マネーです」 「トレード・マネーですか」 「そうですよ」  老人はそう言うと、急に気づいたようにソファーから上体を起こし、大げさに眉《まゆ》をひそめた。どうやら海外生活が長いらしく、どこか日本人ばなれのした身ぶりである。 「まさかあなたは、わが社へ移籍するのは嫌だと言うんじゃないでしょうな」 「僕が……このR商事へ」 「はい、そうですよ。よくあることなので、もうお気づきかと思っていましたよ」 「いいえ」 「それは失礼した……」  老人は立花を見た。立花は軽くうなずき、 「わたしどもは、いつでも人材を求めています。あなたも、わたしどもの求める人材の一人です」 「僕がですか」  老人が答えた。 「率直に言いましょう。求める人材だが、まだ幾分未開発な面をお持ちだ。第一に、自分の才能を自覚しておられん」 「才能なんて……」  駒井は謙遜《けんそん》しかけ、折角のチャンスを潰《つぶ》してはと、途中で口をつぐんだ。 「だが、それはあなたがずっと野《や》におられたからだ。これはまあ、言ってみれば、わが社のような一流企業の特殊事情でしてな。R商事の、それも本社社員ともなればですな、日本という国家の社会的な秩序を保つ上からも、何世代にもわたって、かなり高い階層に所属する家庭に生まれた、良識と知性、風格ともに兼ね備えた人物が選ばれなければならんのです。そういう人物を選んで迎えるのがわが社の果たす社会的義務なのです。おわかりですかな。でなければ、この自由競争の社会で、何世代にもわたって営々と上位を保つ努力をするのが、まったく酬《むく》われんことになるでしょう。何も我々は貴族を作ろうと言うのではありませんし、閉鎖的な特権階級を構成しようとたくらんでいるのでもありませんよ。しかし、努力は酬われねばならん。それが正しい秩序を生む条件です。交通規制に反した者が処罰されなければ、交差点の信号など無意味です。その逆に、無事故のドライバーには優秀な技倆《ぎりよう》の持主であることを認め、幾つかの特権を与えることです。それと同じことですよ」 「でも僕は、田舎の貧乏教師のせがれですし、祖父はただの百姓です」  老人はパイプの柄《え》のほうで駒井の顔をさした。 「そういう階層以外にも、かくれた人材はまだまだ多いのです。特殊事情と申したのはその点です。一流企業であるために、逆に人材を選ぶ上で制約をうけるのです。社会的な義務を果たすために、本当に欲しい人物を入れられん場合もある。たとえば、田舎の国語の先生の息子さんで、おじいさんが平凡なお百姓のような場合……進学コースが中心からやや外れたりすると、わが社への応募もしてくれんでしょう」  駒井は思わずうなずいた。 「そういうことですよ。だが、そういう人物は、社会へ出ていずれ光りはじめる。独学で大きな事業をおこした人物は数多くいる。だが、そういう人々が、はじめからわが社にいたら、その人物にとっても栄光はもっと手近なものであったろうし、それよりも何よりも、日本という国家の繁栄の上で、時間的経済的に、ずっと有益であったはずです。R商事は、日本の発展の手段そのものなのですぞ。独占とか寡占《かせん》とか、世の中には罪悪のように言う人々がいます。だが、彼らがめざすものはいったい何ですか。私企業否定の、すべての国有化ではありませんか。たしかにそのほうが効率がよろしかろう。だったら、われわれのめざすところと同じではないですか。はっきり言いましょう。商事は人材を独占したい。優秀な人物だけが集まって欲しい」  そこで老人は声の調子を落とした。 「だが、さきほど申したように、わが社に課せられた社会的な義務ということがある。立派な仕事をなされた政治家のご子息や、著名な実業家の甥御《おいご》さんや、そういう方々を引き取る必要がある。もちろんみな立派な方ばかりだが、時にはそうでない人もいる。承知しとるのですよ。しかしやむをえん。そこでわれわれは常に社外に目を光らせ、あたら才能を群小企業で無駄《むだ》に費しておられる人物を探すのです。高くつきますぞ、これは。しかし、金ではないのです。国のためです。どうかひとつ、あなたもわがR商事に加わり、日本の明日をひらいてください。お願いしますぞ」  駒井はそれをうっとりと聞いていた。 「駒井様に秘密保持をお願いしておりますのは……」  立花があとをひきついだ。 「今のような事情で、いきなり入社していただくわけには行かぬからです。社内……いや社会全体から言いましても、一応の規準を満足させる必要があります。そのため、特別な研修期間を終えたあと、一時秘密社員と申しますか、特令社員と申しますか、そういう立場でご活躍いただき、どの方面からも文句のない実績を示していただいた上で、幹部候補生的な立場の正式社員としてご入社いただきたいのです」 「わかりました」 「今おつとめのほうは、今月末をもって辞表を提出していただきますと、円満にご退社できるよう、あちらの上層部にご了解を得ておきますので……それから、ご退社と同時に、おすまいのほうも、わたくしどもが用意いたします場所へお移り願いたいのです。ご都合はいかがでしょうか」 「はい、結構です。おっしゃるとおりにいたします」 「現在は……」  立花は書類をみながら言った。 「高円寺《こうえんじ》のほうでございますね」  駒井は赤くなった。四畳半一間の、ひどい安アパートなのである。 「お移りいただきますところは、こちらに記してございます。家具その他、すべて整えましたので、できましたら、なるべく以前のものは処分なすって……いつでも、下見していただいて結構です。管理人におっしゃれば判るようになっております。それから、住所の移動その他、役所への届出は、こちらに専門の係がおりますので、万事ぬかりなく手配いたします」  駒井はワクワクした。渡された地図によれば、新居は青山《あおやま》のマンションであった。 「これは些少《さしよう》ではございますが、退社のお仕度金に……」  R銀行の、ぶ厚い封筒がテーブルに置かれた。中身が一万円札ばかりだとしたら、三十万円はあるはずであった。 「どうか、正式ご入社まで、秘密をお守りくださいますよう」  立花の眸が、射《さ》すような光を帯びていた。 「では、お願いしましたよ、駒井君」  老人が立ちあがり、デスクのほうへ歩いて行った。駒井も席を立ち、立花に送られて部屋を出た。 「新居へお移りになりますと、いずれ特別研修の指導担当者がご連絡致すはずですので、よろしくお願いいたします」 「かしこまりました」  R商事の幹部候補生……あの贅沢《ぜいたく》な部屋で聞いた老人の言葉が、廊下を歩く駒井の耳にここちよく谺《こだま》していた。     衣食住  翌月はじめの或《あ》る日、駒井は青山のマンションの部屋で、窓を背に立っていた。部屋は3DKでそう大きくはないが、ベッドにはま新しいシーツがかかり、同じ部屋の戸棚《とだな》にはスペアーのリネンが積まれていた。  キッチンには食器、鍋《なべ》、フライパンなど一式と冷蔵庫。冷蔵庫の中には当分買い入れる必要もないくらい、肉、野菜、果物など一揃いがつまっている。  居間には、いかにも若者好みの華やいだソファーと低いテーブル。それに四人がけの食堂セットが並び、敷物、カーテン、壁の油絵からモノクロの写真パネルまで、申し分なく整っている。  浴室があり、書斎があり、電話がありで、駒井にとっては夢のようなすまいである。  いったい、自分の才能とはどんなものだろう……駒井はいま、真剣にそれを考えはじめていた。  今までにもずいぶん考えて来たが、緑事務機販売を正式に辞《や》めて、こうして夢のようなマンションの部屋へ落ち着いてみると、真剣に考えないわけには行かなかった。  R商事のあれほどの人物たちが、口を揃えて言うからには、嘘《うそ》であるとも思いたくないし、才能うんぬんがよしんば嘘であったにせよ、この部屋が駒井のために用意されていたことは事実なのだし、嘘をついて駒井をひっかけるにしては、手がこみすぎている。冗談ですませられる金額ははるかにこえているし、これだけのことをして何かを吐き出させるにしては、思い当たる節がまったくなかった。  と、なれば、未開発の隠れた才能に彼らがいち早く気づき、駒井をR商事の一員として迎えようとしていることに、疑問のさしはさみようがない。  ではいったいそれはなんだ。  たしかに自分は頭の回転が遅いほうではないようだ……駒井はそう考える。あの野村などにくらべれば、雲泥《うんでい》の差であろうと思う。しかし、その回転の早さに価値があるのだとすれば、世間の人々は思ったより余程|愚《おろ》かだということになる。  他人の頭をのぞいてみるわけにも行かぬから、推測するより仕様がないが、それ程頭の回転が遅い人間ぞろいの世間でもなさそうに思う。  だが、同じ頭の回転でも、他人の顔色を窺う能力のようなことであると、ひょっとすると自分はずば抜けているのかもしれない。勘というか、よく自分でも判らないが、その場の雰囲気の動きで、相手の機嫌だけは判るような気がする。  もし、まだそれがよく開発されていない能力であって、いまのところ他人の顔色を窺うといった、多少いじましい方面にしか活用されていないが、よく訓練すれば、すばらしい読心力に変わるのではあるまいか……。  駒井がみずからをかえりみて、なんとか思い当たるのは、その程度のことであった。その程度でしかないからこそ、それにすがって自分を安心させるより仕方がなく、やがて駒井は、やがて開発されるかもしれない、超能力じみた自分の読心力をあてにしはじめたのであった。  スモッグの空に夕陽《ゆうひ》が沈み、やがて駒井は夕食の仕度をはじめた。東京の夜景に向かって、冷えたビールでひとりだけの乾杯をし、このえたいのしれない幸運が、更にはっきりした形になってくれることを祈った。  八時ごろ、チャイムが鳴った。ソファーに坐って所在なくテレビを見ていた駒井は、びっくり箱の中身のようにとびあがり、緊張してドアをあけた。  ドアの外に、女がふたり立っていた。ふたりとも、とびきり美人だった。少し濃艶《のうえん》すぎるようだったが、あのR商事の受付の美女たちのように、気品がありすぎるより、そのほうがずっと気が楽だった。 「駒井さん……」  片方が言い、すべるように部屋の中へ入りこんだ。 「どなたですか」  部屋の中へ入れてからそう尋ねると、ふたりとも品定めをするように駒井をみつめた。 「あなたの教育係よ」  そう言って微笑した。一人は水色のワンピースで、首の幅に、やや狭目にあけた細長いV型の襟《えり》が、深くベルトの辺りまで切れこんでいた。紺の太めのベルトをしめ、すらりとした脚は濃い茶色のストッキングにつつまれて、それが彼女をことさら艶《つや》っぽく見せている。  もう一人は少しボーイッシュで、髪も短く、明るいブラウンのパンタロンに、同じ色のサハリ風のシャツブラウスを着ていた。どちらとも、甲乙つけがたい感じだった。 「いいお部屋ね」  女たちは無遠慮に部屋をのぞいてまわった。 「どうぞおかけください」  駒井が言うと女二人は顔を見合わせ、外人じみた仕草《しぐさ》で軽く肩をすくめた。 「堅くならないで頂戴《ちようだい》ね。教育係といったって、私たちはあなたをすてきなジェントルマンに仕たてるのが役目。外側を全部と、中身をほんの少し……」  水色のワンピースのほうがそう言った。生地はシルクらしく、注意深く腰をおろす。 「どういう意味ですか」 「つまり私たちは、あなたのスタイリストというわけよ。髪の型も、服や靴《くつ》なんかも、ひと通り恰好よく揃えるのよ」 「ああ……」  駒井はほっとしたようにうなずいた。 「これからすぐにはじめるわよ。さあ、外出の仕度をして」  サハリ風がせきたてるように言った。あわてて駒井がネクタイをしめ、上着を着ると、 「それがいつもの服」 「やり甲斐《がい》があるわね」  と笑った。  その部屋は七階で、三人がエレベーターで降りると、四階から乗って来た駒井と同じ年くらいの青年が、物欲しそうな眸で二人の女を盗み見ているのが判った。  駒井はなんとなく愉《たの》しくなって来た。  サハリ風のほうが、外の駐車場に真紅《しんく》のボルボを停めていた。かなり荒い運転で、体がうしろへ引っぱられるような感じだったが、あっというまに青山通りへ出ると、まっしぐらに赤坂《あかさか》へ。  赤坂のホテルの前へ轟然《ごうぜん》と突っ込んで、 「駐《と》めてくるから先に行ってて」  と二人をおろし、赤いボルボは颯爽《さつそう》と去る。二人はエスカレーターで上へ行き、思い思いのおしゃれをして歩きまわっている若いカップルの間をすりぬけ、フランスの名前をガラスにすりこんだ洋服屋へ連れこまれた。 「寸法とって。連れて来たわよ」  顔みしりらしく、女は気やすく奥へ声をかけた。店員が二人がかりで寸法をとる間、女はじっと棚の生地の列を眺めている。車を置いてもう一人が来ると、二人で指をさしてあれこれ話し合いはじめ、床のマガジン・ラックから外国雑誌をとりあげると、ページをめくって、 「これと……この型でしょ。それから……」 「スポーツ・ジャケットに……タキシードは要らないんじゃないの」 「いいわよ、作っちゃいましょうよ。どっちにしても、淡いブルーみたいな感じね。襟やポケットはお店にまかせて……そう、それもいいんじゃない」  と相談している。駒井は体をいじりまわされただけで、万事あなたまかせであった。  店員と女たちの話し合いがすむと、 「じゃ行きましょう。今度は靴と小物よ」  せきたてるように言われて外へ出た。  その夜買ったものは、靴三足にワイシャツを十枚ほど、ネクタイ五本、ハンカチ、靴下、下着に財布、ライター、カフスボタン、タイピン、帽子、化粧品、腕時計にサングラス……。女たちは札びらを切りまくり、駒井はどれもこれも凝《こ》りに凝った最高級品が、すべて自分の明日からの身のまわりの品々だと思うと、熱が出て来そうな具合であった。 「あらやだ。こんなに残っちゃった」  ミーヨが言った。その頃にはサハリ風のがミーヨで、水色のがサーリという名前であることも判った。ミーヨとサーリは封筒をのぞきこみ、中の紙幣を数えて笑い合った。 「じゃ、このお財布へ入れとくから、あとでこっちの領収書だけ、誰かに渡してやって」 「誰かって誰……」 「知らないわ。誰か来るでしょ、あなたのところへ」 「そうか」  要領を得ぬまま、言われたとおり受け取った。銀座《ぎんざ》の地下駐車場にとめた車の中だった。 「あしたの朝十時ごろ電話がかかるはずよ。それは美容院だから……あなたのマンションのすぐそばだし、そしたら行って髪をちゃんとしてもらってね」 「美容院」 「ええ。でも、最初だけ。あとはまめに床屋《とこや》さんへ行けば、その形でいられるはずよ。それから、あしたのお昼すぎ、赤坂のあの服屋さんへ行って頂戴。最初のが、仮縫いになってるはずだから……」 「そんなに早く」 「ええ。だって、そんな恰好で二日も三日もいるの、嫌でしょう」 「驚いたなあ」 「とにかく、あしたの晩、今日くらいの時間に私たちのどっちかが行くわ」  サーリが言うと、ミーヨが声をあげて笑った。 「どっちかがね」  ひどく蓮《はす》っぱな笑いかただった。 「その時、服を持ってってあげる」 「昼に仮縫いして、夜にもうできちゃうの」 「そうよ。あしたの晩から、あなたは私たちの教育を受けるわけ。先生の言うことをよくきくんですよ」  サーリは愉しそうにからかった。 「よろしく」  駒井は真面目に頭をさげた。何か知らないが、悪くない感じだった。     女ふたり  その夜以来、サーリとミーヨの教育がはじまった。彼女らがどこに住んで、どんな姓なのか、いっさい不明だった。恐らく、サーリやミーヨという名も愛称のようなもので、本名は別なのだろうが、やがて駒井にもそういうことは、どうでもいいことなのが判って来た。  二人のどちらかが電話をしてくる。二人の恋人をもって、毎日どちらかとデートしているような具合だった。銀座、赤坂、六本木《ろつぽんぎ》と、夜ごと腕を組んで遊びまわり、贅沢な遊びに馴《な》れさせるのだった。  行動半径が違うので、昔の知人たちにはまったく会わないですんだ。  肉体関係ができたのは、ボーイッシュなミーヨが先だった。  いわゆる教育、がはじまって二十日くらいたった夜、ミーヨは調子にのって少し呑みすごしたらしく、 「つまんないから、あなたのお部屋へ行きましょうよ」  と言いだしたのである。  その頃には駒井も現在の暮しにすっかり度胸を据《す》え、ミーヨやサーリにもあまり気押されなくなっていたから、 「いいのか。ただじゃ帰れないかもしれないぜ」  などと冗談半分に反応を打診する。ミーヨは駒井の右腕にすがりつき、というよりはとっぷりと胸にかかえこんだ形で、 「あら、そんな台詞《せりふ》も言えるのね。見直したわ」  と受けて立つ様子である。  駒井にとっては無尽蔵《むじんぞう》と思えるくらい遊興資金があって、一流のクラブやレストランのマネージャーに顔がききはじめて、とびきりの美女をとっかえひっかえ侍《はべ》らせて、悪い気がしないどころではない。  不思議なもので、そうなると妙に自信がつき、慣れないおしゃれや贅沢も身についてサマになり、本来教師の側であるはずのミーヨたちが、とかくリードを駒井にまかせがちになる。  もともとそうルックスの悪いほうではないから、自信のせいもあって体がひとまわり大きく見え、ミーヨを連れて歩いても不釣合《ふつりあい》というようには感じられなかった。  青山のマンションへ入ると、駒井は彼女のうなじに手をあて、 「汗ばんでるじゃないか。風呂《ふろ》へ入って流して来いよ」  とさりげなく言った。  ミーヨは鼻を鳴らし、駒井の首に両手をまわした。 「それ、どういう意味」  駒井は黙って顔を寄せた。長いキスだった。駒井は不器用に唇を合わせ、僅《わず》かにのぞかせた舌でミーヨの下唇を撫でた。  それが彼女には意外に効果的だったらしく、目をとじてじっとしていた。  唇を離すと、 「久しぶりよ、こんな落ちついた感じのキス……」  と、本気らしい溜息《ためいき》のあとで言った。  はっきりはしないが、ミーヨもサーリも、どうやら高級なコールガールらしいと駒井は感じていた。そういう女だとしたら、技巧を競っても無駄なことで、駒井はミーヨを自分なりのペースで扱うことにきめた。  恋の経験もそう多くないし、セックスも少年じみた幼稚さでしかないと自覚していたから、駒井は初恋の相手を扱うように、おずおずと、静かな情感だけを愉しみはじめた。  ひょっとすると、それこそが女体に情欲を湧きたたせる最高のテクニックに通じていたのかもしれない。バスルームから出て来たミーヨは、すぐにとろとろに融《と》けたようになり、※[#「米+參」]粉細工《しんこざいく》の人形のように、ねばりけのあるしなやかさで、駒井の思いどおりに姿態を変えはじめるのだった。 「もう……もういや……」  鋭く尖《とが》ったバストの頂上だけをかすかにくすぐり、腰骨のとがったあたりから、太腿《ふともも》と腹部をわける斜線にそってあてた掌をわずかにずらせているだけで、ミーヨは悶《もだ》えはじめるのである。恥毛は薄く、そのすぐ上から臍《へそ》のあたりにかけて、ほぼ円形にかたまるコケティッシュな筋肉があった。 「そっと……ゆっくり」  駒井が位置を変えてミーヨの両肩のあたりに手をつこうと体を動かすと、彼女はそう言いながら膝をうごめかせた。かかとの位置を変えずに、膝をひらいて駒井を迎えようとしているのが、うつむいてのぞきこんだ眸に、いかにもしたたかな女の欲情ぶりとして映った。  その白い膝の間に駒井の両膝が入った。ミーヨの柔らかい腿をまたぐとき、駒井の尖端《せんたん》が一の字を書くようにその肌《はだ》を通った。 「…………」  五十音にはない複雑な発音で、ミーヨは悲鳴に似た声をあげた。 「もう……いや」  待てないという意味らしかった。駒井は手をそえて、ミーヨの中へすべりこんだ。ミーヨは優しくなめらかに駒井を迎え、尾を引いて唸《うね》るとヒップをシーツから離した。 「じっとしていて……お願い」  駒井は言われたとおり、眉を寄せたミーヨの顔をみおろしている。ミーヨの下半身がシーツにつき、すぐゆっくりと離れ、それをくりかえしはじめた。下半身が離れるたび、ミーヨの背中がベッドに沈んだ。  駒井はそこに体を置いているだけであった。まるでそれは、ミーヨが独りでたのしむことに似ていた。ミーヨの両手は這《は》うように動いて、やがて白い胸の膨《ふくら》みに達した。握り、つかみ、変形させた。 「動かないで」  また言い、動きを少し早める。喘《あえ》ぎはじめ、ときどき下唇をなめた。が、それもしばらくのことで、形のいい唇が半びらきになり、とじなくなった。顎をつきだすように口を大きくあけた。駒井の下で、半円形のコケティッシュな筋肉が、微妙にうごめいてこわばるのが見えている。  ミーヨの絶頂は、少しずつやって来た。電極を小きざみに接触されているように、ひくり、ひくりと震えはじめ、ゆっくりと息をつめて行った。  絞るような声を引いて、ミーヨが絶えた。その時になって、駒井は長い脚で抱かれた。背中を丸めてバストの頂を吸うと、ミーヨはしばらくされるままになってから、急に体をねじって公平を求めた。駒井は交互に口づけをした。 「好きになりそう」  呼吸を整えて言い、脚を外してからがむしゃらなキスを求めて来た。 「きっと、この話をしたらサーリもあなたに抱かれたがるわよ」  どうする、というようにミーヨは駒井の眸をのぞきこんだ。 「だって、もうミーヨとこうなっちゃったじゃないか」 「私たちなら平気よ。サーリも抱いてあげてよ」 「本当のことをいうと、俺は両方とも好きなんだ。今までも、ときどき困ったんだよ」 「どっちにしようか、って……」 「うん」 「二人とも愛して。二人一度にだってかまわないわ」 「それも教育かい」  するとミーヨは案外平気な様子で、 「ええ」  とうなずいた。 「でも、とにかく今夜は私だけ。久しぶりにすてきにさせてもらったから、今度はあなたがびっくりするくらい……教育してあげるわね」  ミーヨは体を外した。駒井を寝かせ、何か仕掛けようとしながら、急にぐらりと体を倒した。 「どうしたんだい」 「あなたのせいよ」  ミーヨは失敗を慚《は》じるように短く言い、深呼吸をひとつした。  それからの小一時間は、駒井にとって霧につつまれたような時間だった。ミーヨは駒井を爆破しなかった。導火線に点火し、そのたびに寸前で消した。点火している時間が次第に短くなり、時間が短くなる分だけ、駒井の波動が激しくなった。  だが、耐えさせられすぎたのだろうか。ミーヨが測った最後の時間が来て、彼女にふたたびつつまれたとき、駒井は最初の時と同じように冷静になってしまっていた。  したがって狂乱はミーヨへ先に来た。駒井の上でミーヨは荒れ狂い、もだえ苦しんだ。 「サーリ……」  ミーヨは最後にそう叫んだ。駒井が積極的にミーヨの時間に合わせなかったら、ミーヨの体は萎《な》えたまま犯されなければならなかったろう。  だが、結果的には一致した。そして心理的にはミーヨが敗北を確認したようだった。 「ひどい人……嘘つき」  ミーヨは甘えて駒井の胸にキスした。駒井は幸福だった。凄い人生になったと思った。     甘い日の終わり  乱交というには余りにも情緒が纏綿《てんめん》としていた。ミーヨとサーリは駒井を本当に恋してしまったようだった。  それは、ミーヨとサーリが同性愛の関係にあったせいかもしれない。  考えれば奇妙な関係である。ふたりはたしかにR商事に操作されている、高級コールガールであった。コールガール同士として知り合ったあとで、同性愛が成立したらしい。したがって、他の男を抱くことに、互いに嫉妬《しつと》はないらしかった。  ミーヨは久しぶりに接する、客でない男の静かな情感にまきこまれ、もののみごとに駒井に屈服させられてしまった。ミーヨはそれを偶然の結果とは考えず、駒井をすばらしい男としてサーリに報告したのである。  サーリはそのため暗示にかけられたようになって、一途《いちず》に駒井の逞《たくま》しさを待ちうける心理になった。駒井がそれを抱き、サーリはミーヨ以上に狂乱してしまった。  駒井は二人の美女にかしずかれることになった。二人を合わせて抱き、交互に抱き、そして同時に愛撫《あいぶ》させるようになったのである。或《あ》る時は、夜の青山通りを、エロティックな美女を両腕にかかえて散歩した。コンサートへ行き、映画館へ行き、劇場へ行き、そして夜ごとレストランへ連れて行った。  一か月、二か月、三か月……。遊びの匂《にお》いが体から滲《し》みだすようになり、妙に華やかな雰囲気が身について、何気ない恰好で歩いていても、人がふとふり返るようになった。  そして駒井は、その特別研修期間が終わるのを、懼《おそ》れるようになりかけている。  そんな或る日の昼さがり、駒井の部屋のチャイムが鳴った。  訪れるのはミーヨかサーリにきまっていて、どちらも夜しか来ないから、真っ昼間チャイムが鳴るのは久しぶりのことである。  駒井はすっかり朝寝坊になり、その時もやっと朝食をおえて、パジャマ姿のままぼんやりと夜になるのを待っているような状態であった。  ドアをあけると、ダークスーツの男がふたり、いかめしい顔で立っていた。 「R商事から来ました」  男の一人が冷たい言い方をした。 「どうぞ、まだこんな姿で……着がえますからお待ちください」  男たちは黙って居間へ通り、じろじろと内部をみまわしている。朝食の跡が乱雑に残され、サーリのうすい部屋着がソファーの背にだらしなく掛かっていた。  駒井は手早く着がえ、ネクタイをしめながら居間へ出て来たが、まだ坐らずに部屋のあちこちを眺めまわしている二人に気づくと、ギョッとしたように手をとめた。  雰囲気が商社マンではなかった。無遠慮に眺めまわす態度は、警察官のものだった。 「失礼ですが、ご用件は」  たしかめるつもりでそう尋ねると、じろりと冷たい視線を浴びせられた。 「仕度はできたか」 「どこかへ行くんですか」  黙ってうなずく。二人とも似たようなタイプで、さっぱりみわけがつかなかった。 「どこへ行くんです」 「来れば判る。さあ……」  ドアへ歩きだす。 「何時ごろ帰れますか。夜になると客が来るんですが」  男がふり返り、嫌な唇の歪《ゆが》めかたをした。 「もう来ない。心配しないで来るんだ」  駒井は異変を感じた。行く先に何か危険なものが待っている気がした。 「待ってください。あなたがたは誰なんです。客がもう来ないって、どうしてわかるんです」 「あの二人の女は、われわれがここへ寄越した。君がいなくなれば、もう来る理由はない。遊びの時間はもう終わったのさ」  間違いなくすべてを知っている様子だった。 「すると、研修が終わったんですね」  男は苦笑した。 「まあ、そういうわけだ」  駒井は歩きだし、湧きあがる不安感と、この生活に対する未練を抑えつけながら言う。 「判りました。そう言っていただけば最初から……」  バタン、と駒井の背後でドアが閉った。それが最後のはずだったが、ふしぎにサーリとミーヨに対する離別の感慨は湧かなかった。あの二人は、R商事のきずな以上のもので結ばれてしまっているという確信があった。いずれ、どこにいようと探しだせば、もとどおり愉しい恋人たちになると思っていた。  だが、連れに来た二人は不愉快な存在であった。黙然とエレベーターに乗り、下へ着くと両側からはさみつけるように歩きだす。  警官に連行されているようだと思った。  上に赤い回転燈こそないが、警察の車じみた黒いセダンにのせられると、 「これを服《の》みたまえ」  と黒いカプセルをひとつ渡された。 「なんですか、これは」 「毒ではない。いいから服みたまえ」  うむを言わせぬ語気であった。  駒井は口にほうりこみ、一気にのみこんだ。車はじっとそのままの位置に停っている。右側の男が腕時計を眺め、運転手に言った。 「ゆっくりやってくれ」  命令どおり車は静かに動きだし、のろのろと青山通りへ出た。渋谷《しぶや》へ向けて、ゆっくりと走る。  すっかり見なれた町になっていた。ミーヨやサーリの想《おも》い出《で》がつまっていた。窓の外のその風景をみつめているうち、不意に暗幕をおろしたように、その風景がみえなくなった。 「あ……」  と言おうとして息をのんだとき、右側で男の声がした。 「もう普通に走っていい」  そのあともう少し何か喋ったらしいが、駒井には聞こえなかった。体をガクリと前へ倒し、左側の男がそれを元の姿勢に戻した。  駒井の意識はかすみ、かすんだ意識の底で、車の震動だけを感じていた。  時間の感覚も絶えた。何か夢をみつづけているようであったが、どこからが夢なのかよく判らなかった。そして覚醒《かくせい》も、意識を失った時と同様、唐突にやって来た。 「目が醒《さ》めたらこれをのみなさい」  男の声に顔をあげると、見覚えのある医者が、白いプラスチックのコップをさしだしていた。  R商事で健康診断をしたときの医者だった。 「副作用はありませんから安心しなさい。大げさな目隠しをされるよりいいでしょう」  駒井はコップに入った液体をのみほした。甘酸《あまず》っぱい味であった。  医者はからのコップを受け取ると、くるりと背をむけて去った。部屋の隅《すみ》にある屑《くず》入れにコップを抛《ほう》りこみ、ドアの外へ出て行った。  医者の待合室のような感じの、小さな部屋だった。三方にドアがあり、今まで駒井が横たわっていた長椅子がひとつと、灰色のスチール・デスクがひとつ、ポツンと置いてあった。セールスマンだった頃、一度は坐ってみたいと望んだ、ごくありふれたデスクだった。  急にドアがあき、あの白髪の老人が、折たたみ式の椅子をぶらさげて入って来た。 「あ……」  駒井は立ちあがり、 「ごぶさたしております」  と頭をさげた。老人は椅子をひろげてデスクに坐り、 「予定より少し長くかかった」  とつぶやくように言った。 「これから僕はどうすればいいのでしょう」  駒井は機嫌をとるように尋ねた。 「その長椅子をもう少しこっちへ寄せて……」  老人はニコリともせず言った。命じられたとおりデスクに椅子を引き寄せる。 「かけなさい」  坐る。 「さて、これから君にちょっと思いだしてもらいたいことがある」 「なんでしょうか」 「君が勤めをやめたのは何月だったかな」 「緑事務機販売をご命令どおりやめましたのは……」 「簡潔に」 「六月三十日です」 「その前の月の終わり、五月二十五日の晩のことを思い出してみてくれ」  駒井は回想した。案外はっきり憶《おぼ》えていた。 「給料日でした」 「うん。会社の帰りにどこかへ寄ったか」 「ええ……はじめ西口のデパートの裏にある、菊水《きくすい》という魚料理屋へ行きました」 「何時ごろだ」 「さあ……そうですね、六時少し前のはずです。あそこは早い時間に混むので」 「誰か一緒だったかね」 「はい。係長の野村という人物です」 「そのあとどこかへ行ったかね」 「係長……いえ、野村氏がひどく酔っ払いまして、僕が勘定を払っていると、どこかへ消えてしまったんです。あの辺りをずいぶん探しまわりました。それでよく憶えているんです」 「で、それから……」 「見つからなくて、一人になってしまいましたが、少し呑み足らなかったので……野村氏に先に酔われてしまって、呑んでいられなかったのです。それで、すぐ近くの焼鳥屋へ入って……」 「どんな店だ」 「店の名は知りません。屋台に毛の生えたような店で……でも、よく行きましたから、場所ははっきりしています」  老人は椅子に坐り直し、鉛筆をたててコツコツと机を鳴らした。 「店は混んでいたか」 「いいえ、四人でした」 「なぜ数まで憶えてる」 「ちょっとした喧嘩《けんか》があったからです」 「どんな」 「酔った若い男が一人、僕の左どなりにいました。一列に並んで十二人かそこらでいっぱいになる店です」 「できるだけ、その時のことをくわしく……」  どうやらこの訊問《じんもん》の要点らしかった。     訊 問  うす暗い横丁にモツ焼の匂いがたちこめていた。 「兄さん、あい鴨《がも》をもう四本ほど」  四人並んだカウンターの一番奥の客がそう言った。 「おう、それに酒を……」 「特級でしたね」 「うん」  奥に並んでいる二人連れの、手前のほうに坐った四十がらみの男が答えた。その男はこんな店に慣れている様子だったが、奥のほうの初老の男は、どうみても場違いな客だった。  いちばん入口に近いところに坐った駒井も、奥の場違いな客が気になって、ときどき盗み見ていたくらいだった。  まん中の若い客はすでにだいぶ酔っていて、やはりその初老の男を気にしている風情だった。 「こんな店で特級呑むってのはねえや」  そうつぶやいた。頭がぐらぐらと左右に揺れていた。コップ酒をまたひとくち呑み、 「よう、二級にしなよ。モツ焼は二級に限るんだよ。そりゃ俺だって特級ぐらい呑めるぜ。金がねえわけじゃねえんだから。でもよ、モツ焼に特級はねえよ」  はっきり左の奥に向き直り、面と向かってからみはじめた。 「私は余り呑めないので、良いのを少しいただくことにしているのですよ。昔はずいぶん無茶呑みもしましたがね」  初老の客が言う。 「てッ……。くだらねえ。どっか行っちまえよ。ここはモツ焼屋だぜ。ホルモン焼だぜ。品よがるんなら、もっと上等な店がいいね。俺あ何も、無理言ってるんじゃねえんだ。二級のがうめえから教えてやってるんだい。特級ならウニかなんかでやるがいいんだ。合わねえものは合わねえ」  すると四十がらみがそれを無視して、初老の場違いに話しかけた。 「そろそろおつもりにして河岸《かし》を変えますか」 「そうですなあ」 「なんだ、この野郎。黙ってりゃお高くとまりゃがって……。特級の客は二級の客と喋れねえってのか。面白えや。俺も特級呑もうじゃねえか。おいおっさん。特級とあい鴨……」 「およしよ、今日は少しやりすぎてるよ」 「何言ってやんでえ。十二時までにはいつだってしゃっきりしちまうんだ」 「ね、もうおよしよ」  カウンターの中の男がとめた。 「いいじゃねえかよ。俺にも特級」  出口を塞《ふさ》がれた恰好で、二人の客は出るに出られない。 「すいませんねえ。この人はタクシーの運ちゃんなんですよ。いつも宵《よい》の口に一杯やって、十二時ごろから稼《かせ》ぎはじめるんですけど、どういうわけか今日は呑すぎちまったようで……」 「ばあやろ、事故なんか起こすけえ」 「それはいけませんよ」  初老の客がさとすように言った。 「酔いなんて、そう急には醒めませんからね。人命を預かるご商売でしょう」 「うるせえや、特級|爺《じじ》い」  駒井は思わずふきだした。特級爺いというのはピッタリであった。酔っ払い運ちゃんは駒井の笑いに力をえて、 「な、乾杯だけしよう。特級でさ」  と露骨に通せんぼをする。四十がらみがムッとしたらしく、 「どきなさい」  と手荒く椅子に押し戻した。  ……それが原因でコップが割れ、徳利《とつくり》がとぶという騒ぎになった。 「その時の客や店の男だが、今会って見わけられるかね」  老人が尋ねた。 「はい。多分判るはずです」 「よろしい。君が最後だったんだ。明日、君に今言ったことをもう一度法廷で証言してもらいたい」 「法廷」 「そうだ。われわれの法廷だ。君は証人なんだよ。或る事件のな」 「はあ……」  駒井は気の抜けた返事をした。  老人といれ違いに、あの二人連れが入って来た。一人が毛布と枕をかかえていた。 「今日はここで泊ってもらう」 「帰れないんですか」  すると男たちは意地の悪い笑い方をした。 「どこへ帰るつもりだい」 「帰る所があるのか」  駒井は力なく答えた。 「そうですね。ないようですね。あのマンションはあなたがたのものだったし、僕のアパートは引き払っちまったし」  一度に心細くなった。  欺されたらしい……ひどい欺されかたをしたらしい。そう思ったが、憤りよりは情けなさのほうが先にたった。  カフスボタンは四万数千円したものだった。タイピンが二万円、靴が二万六千円、トップクラスの服屋で誂《あつら》えたスーツは、いくらすることやら見当もつかない。  それがみんな餌《えさ》だったのかもしれない。貧乏人を欺すにはいちばんの餌だ。金に糸目をつけず、とびきりのコールガールをあてがって……。  だが、まだそれは疑いにすぎなかった。R商事に入れてやるというのは本当かもしれなかった。いや、その傍系会社でもいい。いい夢をみせてもらったのだ。あとは実直にやり直せばいい……。  いつの間にか腕時計をとられ、時間が判らなくなっていた。     地下道  普通の法廷ではなかった。  これは財界の、産業界の裏側の法廷だった。三分の一くらいは、駒井でさえ雑誌や新聞の写真で見覚えている顔だった。  銀行の頭取がいた。重工業界の大物がいた。電力会社の幹部がいた。化学工業の社長がいた。石油、製紙、製薬、土地、運輸……ありとあらゆる方面の大物がずらりと顔を揃えていたが、ふしぎなことに一般人や報道陣の姿は見えなかった。  そして、私設の、警官そっくりの制服を着たガードマンが、その隙間《すきま》をびっしりと埋めつくしていた。  照明はうす暗く、だだっ広い倉庫のようなところに、馬蹄《ばてい》形にテーブルが並んでいた。 「原告側証人、駒井啓介……」  どこかの席からおごそかな声がした。本物の法廷そっくりの人定尋問がはじまる。  駒井は馬蹄形の底にあいた広いすき間に、ポツンと立たされていた。  たしかにこれは法廷である。  しかし、社会の昼の側にある法廷とはまるで異る掟《おきて》で支配されていた。  事件はどうやら、巨大な鉄鋼産業の内部抗争に端《たん》を発しているらしかった。ふたつの勢力が主導権の争奪をくり返し、やがてそれは、日本を支配する政財界のあらゆる部分に滲透《しんとう》して行ったのだった。  その激突が、某製鉄会社の経営権争奪に集約され、ありとあらゆる策略が、裏側の社会で火花を散らしはじめた。  長い暗闘が続き、やがて徐々に優劣が明らかになりはじめた。守勢に立たされた側は、必死に挽回《ばんかい》策をめぐらし、遂に神聖な彼らの法を犯すという暴挙に訴えた。  優勢な側についた化学工業会社や製紙会社、製薬会社などの各企業が、それまで長年|秘匿《ひとく》して来た超機密事項が、次々に一般社会へ洩《も》れはじめたのである。  それらの超極秘事項とは、廃液の海洋汚染データであり、重金属汚染であり、化学物質汚染の実態であった。  対立勢力は、それが自陣営に対する悪質な陰謀であることを知り抜いていた。しかし、その暴露《ばくろ》合戦は互いの死を意味する。彼らは敵の悪らつな一般への情報提供を、何とかくいとめ、その真犯人を挙げて屠《ほふ》り去ろうと必死に動いた。  同じ階層に所属する、いわば闘いながらも同朋《どうほう》であるはずの相手が、下層階級に対して共通の秘密を暴露しつづける。これほど憎むべき犯罪がまたとあろうか。  ひとにぎりの野心家グループが、敵味方の別なく、階級全体の利益を侵害しているのである。  だが、いかに巧妙に行なわれても、それがどんな階級での出来ごとであっても、所詮《しよせん》悪は悪。遂に全貌《ぜんぼう》が発覚する日が来た。  その日、Q製鉄系の主脳の一人が、あるジャーナリストとひそかに会談し、文書の受け渡しを行なった。  場所は新宿駅西口の、あるうす暗い横丁の店だった。しかし尾行者があり、両名の会見とその目撃者が入念に記録され、収集され、保存された。  そのジャーナリストが公害情報の発生源であることが実証され、Q製鉄系の主脳が手渡した文書の一部も押収された。  大法廷が開かれ、完全に保存されていた証人数名が次々に出廷して、その犯罪行為を立証した。ただ、この罪は、人々の健康、生命、財産を侵害したことには全く適用されなかった。問題は、産業界、政、財界を含む、日本の指導的階級全体の存在を危険にさらしたことであった。  謀議参画者はすべて処罰され、その地位と発言力を奪われた。  出廷者の一部はそのあと事後処理のための委員会に出席し、公害の追及をうけている二、三の企業の存続打ち切りが決議された……。 「僕らはどうなるんです」  もとタクシー運転手と、複写機セールスマンと、そしてホルモン焼屋のおやじは、口々に白髪の老人に訴えた。  三人とも、独房にとじこめられていた。  何日かして、次々に呼び出され、駒井も老人に会った。 「やはり、R商事の社員にすると言うのは嘘だったんですね」 「気の毒だが……」  老人は軽く笑って言った。 「駒井君だったな。駒井を買占めても仕方なかろうよ」  かたわらに立った立花に冗談を言った。 「モチ米ならやりますがね」 「でも、仕事は世話してくれるんでしょうね。やめさせたのはそっちですよ」 「何を言う。一生分の贅沢をしてしまったくせに」  駒井はうなだれた。 「第一君はもうこの世に籍がない」 「えっ」 「君はすでに死んでおる。或る人物が君の名前で死んでおるのだよ」 「じゃ、どうなるんです」 「あの運転手や焼鳥屋と違って、君ならまだいくらか使える。いいかね君。君はもう死んでいる。家もない。しかも、我々の秘密をほとんど法廷で聞いてしまった。いつ死んでも支障ないとは思わんかね」  殺す、という脅しだった。 「…………」 「だが使おう。いいかね。自分がいつ死んでもいい人間だということを忘れるなよ。君のために言っておく」  老人はそう言って立ちあがった。  工場や銀行の店舗にはモニター用のテレビカメラがある。必要ならどんな人物の電話も盗聴できるし、隠しマイクの性能もぐんと向上している。  だが、彼らはそれでも不安だった。  ことに首都東京の主要地点には、ぜひ性能のいい情報収集装置が欲しかった。  突然的な一部の暴動が、連鎖反応的に各地に広まるのは、国鉄ストで実証ずみだった。  だがそういう場所にテレビカメラを据《す》えてみても、いざというとき、いの一番に破壊されこそすれ、何の効果も期待できない。  彼らは妙案を得た。機械ではなく、生身の人間を配置するのである。二十四時間そのあたりに常駐し、地理に明るく、情勢の変化にすばやく反応できる人間を……。  そういう要員が組織化され、配備された。  駒井啓介がそれに加わったのは、組織が完成し、実際に配備されてからだいぶあとのことである。  駒井はいま、新宿駅西口に近い地下道の、ショー・ウインドーの前のコンクリートの床《ゆか》に横たわっていた。肘枕で、心もち背を丸め、やや膝を折る恰好で寝ていた。  時間はもうそろそろ昼に近いだろうか。  今日も何事も起こらぬに違いない。このあたりの気配にさえ注意していればいいのだから、ルンペン同様、道ばたで寝ていても充分につとめは果たせる。  その背後の地下道を、人々がせわしなく行き交っている。駒井は目をとじた。目をとじて、あの夢のようだったマンションの生活を、また追いはじめるのだった。 「ルンペンがまた寝てる。のん気でうらやましいよ。まったく、ああなれば天下泰平だな」 「どうだ、お前もやってみるか」  通りがかったサラリーマンが駒井の寝姿をみて言った。 「いくらなんでも、俺はああならんさ」  一人が自信たっぷりに言った。 「そんなに自信持っていいのかい……」  一人がからかった。駒井の耳にそれが届いていた。 「まったくだ」  駒井がかすかにつぶやいたようである。 [#改ページ]  静かなる市民     1  工藤《くどう》が勤めている会社は十年ほど前から急に大きくなった。以前は静岡《しずおか》県に工場を持ち、そこで造った家具を販売しているだけだった。だが十年前輸入家具を扱うようになってから業績が伸び、今では高級輸入家具専門のようになっている。家具は風土を違えると気候の関係でとかく狂いやすい。大衆むけ製品はその狂いが大きく、輸入するとなるとやはり緻密《ちみつ》な細工の高級品のほうが無難なのだ。その高級家具に手をだしたタイミングがよかったのだろう。売る方が首を傾《かし》げたくなるような超豪華品がどんどん売れ出したのだった。宣伝もうまく行き、営業スタッフにも人を得ていた。本社は日本橋の貸ビルに移り、その一階を派手なショールームにして豪華な家具を並べたて、金のあり余っている連中に部厚いダイレクトメールを定期的に送りつけていた。かつて本社所在地だった荒川《あらかわ》区|尾久《おぐ》の土地には巨大な倉庫が建てられ、静岡の工場は規模を縮小させられた。  工藤は尾久の倉庫に所属する配送係だった。各デパートへの納品や、売れた家具を買主に届けるのが仕事だ。ありていに言えば、倉庫番兼運転手だった。  その尾久の倉庫へ、ある日営業部の三田《みた》がひょっこり顔を見せた。 「どうだい、うまくやってるかい」  三田は腕のいいセールスマンだった。工藤は意外そうに目を丸くし、腕をさしのべて三田の両肩を掴《つか》んだ。三田は二、三度うなずき、「ああ、こっちもうまく行ってる」と答えた。工藤が顔いっぱいに笑いを浮べて右の小指を軽く立ててみせると、 「うん、元気だよ。時々お前の噂《うわさ》をする」  三田はそう言って工藤の肩を叩《たた》き返した。  工藤は六年前から言葉を失っていた。交通事故で頭にかなりの傷を受けたのが原因で、喋《しやべ》れなくなっていたのだ。 「子供か……まださ。頑張《がんば》っちゃいるがね」  三田は工藤の下手な手話をいちばんよく理解してくれる相手だった。言語障害で職を離れた彼が、この家具会社へ入社できたのも三田の尽力があったからだった。  聴《きこ》える唖《おし》。工藤はそのハンデを負わされて、生活を何段階もさげなければならなかった。唯一のたよりである運転免許証も、そのためにあやうく失いかけたほどだった。だが言葉を失ったというほかに障害は何も起らなかった。工藤は喋れなくなってから、それを独特な笑顔で補うことを覚えた。もともとさっぱりした感じの二枚目だった彼は、他人に何か問いかけられた時、その笑顔でこたえることにしていた。明るく屈託のない工藤の笑顔を見ると、人は自分の発した問いに自分の都合のよい答えをあてはめて納得してしまうのだ。工藤は明るくて無口な好感の持てる青年として、人々の間をそう不便も感じずに暮せるようになっていた。  だが必要な時には筆談をしなければならない。そのためいつもメモ用紙とボールペンを持ち歩いていた。その時も工藤は三田に素早くメモを渡した。 「ああ、それじゃ帰りに寄るよ。倉庫にいるんだろ」  三田はメモをちらっと見てそう言い、工藤は顎《あご》を引いてうなずいた。三田は十五分ほど事務所へ入って何か打合せをしたあと、約束どおり倉庫へやって来た。 「おおい、工藤……」  三田は倉庫の入口で怒鳴った。声は二階だての大きな建物の中で反響した。工藤はその声を聞いて二階から軽快な足どりで降りて来ると、三田を入口の脇《わき》にある小さな部屋へ連れこみ、いつもの笑顔で椅子《いす》をすすめた。 「四時までに三越《みつこし》へ行かなきゃならん。話って河だ」  三田は腕時計を見ながら言った。  ——仕事のはなし——  工藤がメモにペンを走らせた。 「ほう、それじゃ別だ。どこかいい売込先があるのか」  三田は仕事には熱心だった。どうやら営業部の中で、誰かと売上成績のトップ争いをしているらしい。  ——虎《とら》ノ門《もん》の超高層ビル—— 「知ってるよ。霞《かすみ》ヶ関《せき》ビルだろ」  ——ちがう。新しいほう—— 「ああ、五十二階だてのほうか」  ——中央高層ビル—— 「わかったよ。それがどうしたんだい」  ——毎日のように高級品を届けている——  工藤は自分の顔を指さし、その次にハンドルを握る身ぶりをして見せた。 「ほう……」  三田は不思議そうな表情になった。高級家具を運ぶのはピアノを運ぶのと同じように、専門の技術が要る。都内の各デパートに展示してある品が売れた時は、その配送を輸入元であるこの会社が引受ける仕組みになっていた。三田が直接扱った場合は、当然彼がその届先を知ることになるが、そうでない場合は何がどこへ行ったのか知る必要もない。だが工藤は、売れた家具の行先をあらかた知っている。ほとんど彼が運ぶからだ。  工藤は木の机の抽斗《ひきだし》から集計用紙をとりだして三田に渡した。相変らず屈託のない笑顔を見せている。  ——中央高層ビルが完成してから八か月たつ。八か月間にこれだけの品物をあそこへ運んでいる—— 「こいつはすげえや」  三田は呆《あき》れたように集計用紙を眺《なが》めた。「これ、俺《おれ》のために調べといてくれたのか」  工藤はにっこりと笑ってうなずいた。 「有難う。役にたつよ、このデータは。でも大変だったろう」  工藤は首を横に振り、小指をたて、腹をさすり、ふところへがっぽり金が入るしぐさをした。 「子供のできる気配はないけど、こいつはいいネタだ。がっちり稼《かせ》いだら一杯やろうじゃないか。たまにはうちへも遊びに来いよ」  ——中央高層ビルはマンションなのか—— 「いや、そんなことは聞かないな。会社ばかりのはずだが……でもこれだけ高級家具が入っているんだから、多分上のほうは住宅になっているのかも知れないな。とにかく当ってみるよ。そうだ、ほかの奴《やつ》には内緒だぞ」  工藤は言うものか、といった様子で右手を振った。工藤が三田の元気な姿を見たのはそれが最後だった。     2  セールスマンの三田を応援するつもりで、ここ八か月ばかりの間にざっと一千万円近い高級家具をのみ込んだ虎ノ門の中央高層ビルを教えてやったのだが、そうなってから考えてみると、工藤にはよく判《わか》らないことが多かった。  何しろ地上五十二階だての日本一のビルだから、金のある者が買いとるスペースに不足はないはずだ。だがいろいろ周囲の者に訊《たず》ねて見ると、そのビルはオフィス専門で住宅はないはずだという。だが住宅はないとしても、社長・会長級のプライベートなスペースはあってもよい。現にベッドや化粧台、大理石の洗面セットまでそこへ届けているのだから、そういったプライベート・ルームは必ずあるはずだった。しかし、それなら買上げた名義は個人でなく法人になりはしないか。少なくともソファーやテーブルなど、応接用に使えるものは当然法人名義になってもよいと思えた。  しかし実際に工藤の所へ届く伝票には、中央高層ビルに関し法人名はほとんどなく、個人名ばかりだった。その上、工藤はそれを一度も中央高層ビルの上の階へ運びあげたことがないのだ。配送係は何組かあって、自分の時だけ偶然運びあげないことになるのかと思いたしかめたが、他の組の場合もみな地下二階の駐車場の一角にある、貨物受付口のような所へ置いて帰るだけだった。  折角作ったデータだが、果して三田がそれをうまく利用できるか工藤は心もとなくなってきた。買上げた者の住所は伝票の数の半分ぐらいには記載してあった。世田谷《せたがや》区とか品川《しながわ》区とか神奈川《かながわ》県とかいろいろだったが、届け先はみな中央高層ビルなのである。それ以来工藤は中央高層ビルへ届ける仕事を極力買って出るようにつとめ、地下二階の貨物受付口で荷物をおろす間、そのあたりを注意深く観察した。ことに二基並んだ貨物用エレベーターの動きには注意をはらった。運がよければ自分の運んだ家具が何階へ着くか、エレベーターの標示ランプで判るかも知れないと思ったからだ。だが一度もその機会はおとずれなかった。片方のエレベーターには標示ランプがついていたが、もう一方のには何もついていなかったからだ。一度故障のふりをして強引にそこへ居すわり、家具の行方を調べたが、家具は標示ランプのない方へ入れられてしまった。受付のあたりをうろついて、さりげなく聞きだすという芸当のできない工藤は、あきらめてすべてを三田の腕次第にまかせる気になった。  その三田は一向に顔を見せない。通りすがりにちょっと寄ると言っても、高級家具の需要は主として東京の西側に片寄っていて、尾久のあたりへ彼がまわって来ることはまずないと言っていた。工藤は一度だけ仲間に筆談で頼んで、本社の三田に電話してもらった。虎ノ門の様子はどうだ、というかんたんなことづてだったが、数日後三田から事務所へ短い伝言があり、二十九階らしいという返事だった。「三田さん、とっても張り切ってるみたいだったわよ」と、その電話を受けた事務所の女の子が工藤に教えてくれた。  が、それから一か月もしない内に、工藤は三田が深夜運転を誤り、車ごと東京港にとびこんで死亡したというしらせをうけとった。場所は芝浦埠頭《しばうらふとう》の南端だった。  三田の突然の死に、工藤は通夜《つや》から葬式にかけて、ただ茫然《ぼうぜん》と過してしまった。人々が悲痛な表情を演技し、ひそやかな足どりで歩いて見せる中で、工藤はじっと坐《すわ》りとおしていた。三田がなぜそんな場所へ行ったか、なぜ海へ突っ込んだか、すべてが解けない謎《なぞ》だった。人々は唯一の保護者である友人の三田を失った唖の工藤が、悲嘆の余りに妙な考えでも起しはすまいかと、時折り押しつけがましいはげましの言葉をささやいて行った。  だが、葬儀が終ると工藤はすぐその足で新宿《しんじゆく》へ向った。三田の妻が会葬者の一人に向って、死ぬ前夜新宿で呑《の》んだらしく、上機嫌で帰って来たと話しているのを聞いたからだった。工藤は三田が飲んだ店に心当りがあった。  その店はクラブ宮戸《みやと》と言う名だった。だが工藤はいよいよとなって、その酒場のドアを押すことに強い抵抗感を味わった。言葉を失う前、彼は一流商社マンとして、家具屋づとめの三田などが及びもつかぬ羽ぶりをきかせたものだった。それが今では唖の倉庫番兼運転手なのだ。  しかし結局工藤はそうした心理をいつもの屈託のない笑顔でみごとにおしかくし、慣れ切った態度で店に足を踏み入れた。とたんにマダムの伊津子《いつこ》が大げさな嬌声《きようせい》をあげてとび出して来た。そうした迎え方をするのも六年ぶりなら、水とウィスキーの香りが入り混って妙にひんやりとした酒場の空気も六年ぶりだった。 「変らないわ、工藤ちゃん」  伊津子はしみじみと工藤の頬《ほお》のあたりへ手をさしのべて言った。からりと明るく、そのうえ妙に女好きのする工藤を、ホステスたちがちらりちらりと気にしている様子だった。  奥まったテーブルに坐ると、工藤はボールペンを走らせた。  ——死ぬ前の晩、三田が来なかったか—— 「死んだんですってねえ。会社の人から聞いてびっくりしちゃった。でも人生ってほんとに判らないものねえ」  伊津子は工藤の物言わぬ唇《くちびる》のあたりを眺めながら言った。「あなたは運が悪いと思っていたけど、三田さんよりずっと幸運だったってことになるわね」  ——あの晩三田は誰《だれ》かと一緒か—— 「ああ、事故のあった前の晩ね。来たわよ。土建屋《どけんや》さんと一緒だったわ。はじめての人だったけど……」  ——名前は—— 「ちょっと待って、名刺もらってある」  伊津子は立ちあがり、カウンターへ行って名刺を取って来た。名刺にはK建設労務課係長という肩書きがあった。 「係長と言っても多分現場の人よ」  伊津子は確信ありげに言った。  ——明日、この名刺の場所へ電話してくれないか—— 「どうするの」  ——顔が見たい—— 「だったらゆっくりして行きなさいよ。あしたあなたのいる前で電話してあげるから。ね……じゃないと頼まれてあげないわよ」  伊津子は工藤の手の上に強く手を重ねて言った。「あなたが来なくなる前、私工藤ちゃんを口説きかけてたのよ。覚えてる……」  工藤は六年前の人生が、そのひとことで空白の期間をとび越え、一気に現在へつながったような思いだった。なんとなく喋れる気がして笑いながら何か言いかけた。が、結局唇がむなしく動いただけに終った。  その夜、工藤は伊津子の部屋で、力仕事の年月が自分の体を昔とはくらべ物にならぬほど強靭《きようじん》にしてくれていたのに気づいた。伊津子は六年ごしの想《おも》いがとげられた感激ばかりではなく、工藤の体力にしとめられて、いつまでもすすり泣いた。 「もう放さないから、もう放さないから」  彼女はそう言い続け、「そんな倉庫番みたいなことやめちゃって。私がちゃんとしてあげるから」  と哀願するように言った。工藤はそれも悪くないと思った。唖という重圧が、女の体をねじりあげ、押しつぶしている間に、どこか遠くへ去って行ってしまったようだった。     3  工藤は伊津子をのせた車の中で、じっとその工事現場を眺めていた。それはお堀ばたの地下鉄工事現場だった。道の中央に一定の間隔でやぐらが立ち並び、てっぺんにのぞいている機械が活発に動いていた。  夕方になると、工藤が停《と》めた車のすぐ傍《そば》にK建設のマークをつけた大型バスが着き、やがて地底からヘルメットをかぶった作業員がぞろぞろとあらわれ、そのバスにのりこんだ。 「あの男よ。三田さんと一緒にお店へ来た男に間違いないわ」  伊津子はその中の一人を指して工藤に教えた。ヘルメットの男たちをつめこんだバスは、すぐにドアを閉じて動きだした。工藤はそのあとを追う。  バスは青山《あおやま》通りから渋谷《しぶや》へ出ると、更に参宮橋《さんぐうばし》方面へ抜けた。 「こんなところに飯場《はんば》があるのかしら。マンションばっかりじゃないの」  伊津子が不審そうに言ったが、なんとK建設のバスはその言葉の直後、本当に立派なマンションの駐車場へ吸い込まれるように乗り入れてしまった。 「やだわ。地下鉄の工事してる人たちがマンションに住んでるの……」  伊津子は不満そうに言い、工藤はその前を通りすぎてしばらく行ってから車をとめた。  ——近くの商店で聞いてくれ—— 「なにを聞くの」  ——あの連中が本当にあそこに住んでいるかどうかだ—— 「判ったわ」  工藤は彼女が車から出て行くと眼を閉じた。この東京に何かが起っている……そう思った。もしK建設が作業員をあの豪勢なマンションに住まわせているとすれば、その答はただひとつ、彼らの進めている仕事に何かとてつもない秘密があるせいだ。軟禁なのか、それとも甘い生活を与えて口どめしているのか、どちらにせよ、工事に大きな秘密があるのだ。だがそれと三田の事故死とどういう関係があるのだろう。虎ノ門の超高層ビルと高級家具の関係は……。  伊津子が戻って来た。 「もう随分以前から住んでいるそうよ。でも地元の人たちとは余りつき合いがないみたい。工事現場の人だって知られると体裁が悪いからかしらね。どっちにしてもみんなお金持ちらしいわよ」  工藤はやはり只事《ただごと》ではないと思った。 「ねえ、どこへ行くの、これから。私お店へ行く時間なんだけど」  車を新宿へ向けているのに、伊津子はそう言って気を揉《も》んだ。「と言ったって返事はできないんだし、ハンドル握らせると不便ね。私がかわるわよ……」  伊津子はからかうように言った。車は彼女の車だった。  工藤はその翌日も尾久の倉庫へ行かなかった。伊津子はベッドに腹ばいになり、彼に肌《はだ》をまさぐらせながら言った。 「ねえ、あなた今貧乏なんでしょ」  工藤はうなずいた。「私に服を買わせて。だってジャンパー姿なんだもの」  工藤は少し考えてからまたうなずいた。伊津子は小娘のような歓声をあげ、「上から下まで全部私が見立てるのよ」  と言った。工藤は中央高層ビルの二十九階へまぎれ込むには、もう少しましな服装をしたほうがよいだろうと考えていた。  伊津子は着せかえ人形をもらった少女のように、瞳《ひとみ》を輝かせて彼の衣裳《いしよう》を買い集めた。  しかし部屋へ戻ってそれらを工藤に着させ、惚々《ほれぼれ》と眺めている内、彼女は急に醒《さ》めた表情になった。 「やだわ。あなた美男すぎる……」  伊津子は三つほど年上だった。「私くらいの女って、あんたみたいなのに弱いのよ。どうしても浮気するなら、うんと若い子にして、お願いだから」  伊津子はそういうと工藤にだきつき、しゃにむに唇を合せて来た。     4  五十二階だての新しいビル、中央高層ビルの二十九階は、まるで難攻不落の城だった。  まず第一に、二十九階に止るエレベーターがどう探しても見つからなかった。工藤は仕方なく二十八階へ登ってみた。ところが二十八階というのは帝都《ていと》不動産という有名な大会社がワンフロアーをそっくり使っていて、エレベーターをおりるとすぐ、よそよそしい感じの大きな受付になっていた。そこを通り抜けなければどこへも行けない仕組みになっている。工藤は例の笑顔と階を間違えたというジェスチュアーを示して、次の下りのエレベーターで引き返した。  一旦《いつたん》ロビーに降りた工藤は、すぐ三十階へ登った。三十階はいろいろな会社が入っている様子だった。彼は廊下を用あり気に歩き、様子を見てまわった。法律事務所、神経科医、旅行代理店の本社、空調サービス社……何の変哲《へんてつ》もなかったが、廊下にガードマンの姿が多かった。ガードマンは帽子と胸と袖《そで》に鷹《たか》のマークをつけていた。  鷹のマーク……工藤は地下の貨物受付口を思い出した。そこのガードマンもたしか鷹のマークをつけていた。そう思いながら、工藤は重い鉄の扉《とびら》を押して階段室へ出て見た。階段室はしいんと静まり返っていた。彼は鼻唄《はなうた》のひとつも出そうな気軽な態度を装って二十九階へ下りた。しかし二十九階の扉には、締切、と書いた札《ふだ》が貼《は》ってあり、ノブを引いてもびくともしなかった。彼は三十階へ引返し、非常階段の出口を探した。だが、それを発見はしたものの、胡散臭《うさんくさ》そうにねめつける鷹のマークのガードマンが見張っていてどうすることもできなかった。  その時、歯科医から四歳くらいの少女が、母親にあやされながら出て来るのにぶつかった。少女は泣くのを我慢し切れなくなったらしく、工藤の顔を見たとたん大声で泣きだした。工藤はとび切りの笑顔を示してその少女の前に中腰になり、自分の片方の頬をぷっとふくらませてみせた。女の子は中途半端な泣き方になり、やがてしぶしぶ泣きやんだ。母親のほうが工藤の笑顔に魅せられたらしく、どうもすみません、と笑いかけて来た。その寸劇で背後の非常階段の出口に頑張っているガードマンの疑念が解けたらしかった。母子《おやこ》はエレベーターホールまで工藤と並んで歩き、彼がエレベーターの前で立ち止まってもそのまま進んで、何度もふり返りながら、近代旅行社という看板を掲げた部屋へ入って行った。  そのあと、工藤はゆっくりと時間をかけてその超高層ビルを丹念に見てまわった。他の階にはどこと言って怪しい節は見当らなかった。散々探訪した挙句《あげく》、結局二十九階に謎《なぞ》があると見きわめ、さりとてどうすることもできずにロビーの椅子でひと休みしていると、エレベーターホールのほうから、さっきの母子がやって来るのを見かけた。じっと観察していると、少女はどうやら旅行にでも行くらしく、盛装して小さな鞄《かばん》をぶらさげていた。若い男が足早に近寄って少女を引取ると、少女は機嫌よく母親に手を振ってバイバイと言った。少女と若い男は、ビルの前に待っている大きな外車にのりこんで去った。  工藤は素早く行動を起し、気づかれぬよう母親のあとを追った。彼女は熟《う》れ切った美人だった。だが工藤はそれよりも、二十九階あたりに住んでいるとすれば、この女よりほかにないはずだと緊張していた。あの少女はこのビルのどこかで着換えをし、出かけて行ったのだ。とすれば、この艶《つや》っぽい母親のあとをつければ二十九階へ行く道が判るに違いなかった。  工藤はあっと思った。母親の向っている先は、エレベーターホールのはずれにある小さな旅行案内所だった。そこには三十階でみたのと同じ近代旅行社という看板があるではないか。彼は急に足を早め、ひと足さきに母親を追い越してその旅行社のドアをあけた。そしてボーイが客を招き入れるようにその女を通した。 「あら……さきほどはどうもお世話になりまして」  女は大きな瞳を悪戯《いたずら》っぽく輝かして言った。「いまあの子を旅行にだしたところなんですよ。パパが信州《しんしゆう》のほうへ行っていて、どうしても遊びによこせって言うもんですから」  工藤は例の笑顔を存分にふりまいて女と並んで歩いた。女はたえ間なく話しかけながら、旅行社のカウンターの扉をあけ、奥のドアを押した。中には厳しい顔つきのガードマンが二人立っていた。やはり鷹のマークをつけていた。  それはひとつの関門だったようだ。規定の身分証を提示しなければ、その次のドアは決して開かれなかったろう。だが彼女は娘をつれてそこから出て行ったばかりだった。そして引きかえして来た時、屈託のない笑顔を見せる工藤と親しげに語り合っていたのだ。彼はまんまとその関門を通り抜けることになった。  次のドアはエレベーターのドアだった。しかもそれは二十九階へ直行した。内心の動揺を笑顔で押しかくしている工藤を、女は二十九階へつくまでおかしそうにみつめていた。  二十九階はまるで駅のようだった。たくさんの荷物が積みあげられ、その間に通路が黄色いロープで仕切ってあった。制服のガードマンがうようよいて、荷物を積み換えたり数を当ったりしていた。女はその中を慣れた足どりで進んで行った。彼女の向っている方角に、改札口のような関門が見えていた。工藤は女が身分証のようなものを出したのを知ると、急にその肩に手を置いて歩きだした。女は馴々《なれなれ》しい工藤の態度に目をみはってふり向いたが、別にとがめる気もなさそうだった。  ガードマンが突っ立っているその関門の前で、工藤は急につまずいたふりをした。女の身分証が床に落ち、二人はもつれ合ってよろめいた。 「あら、ごめんなさい」  女のほうがそう言って詫《わ》びた。工藤は身分証を拾ってやり、ゆっくりとそれを女に渡しながら、ガードマンに笑顔を向けた。ガードマンは意味不明の薄笑いを返して寄越した。     5  身分証のいる関門にばかり気をとられていた工藤は、その先に再びエレベーターの扉が待っていたことに全く気づかなかった。あやうくその前を通りすぎかけ、女が立ちどまったのに気づいて思わず演技の笑顔を消してしまった。女は謎めいた表情で、工藤が示した一瞬の隙《すき》を見守っていたようだった。  ドアがあくと女はさっさと中へ入った。工藤は彼女の従者のような形でそれに続いた。  強引にこの場所へ紛れ込んだといううしろめたさと未知の世界へ入りこむ不安が、彼からゆとりを奪い去っていた。  エレベーターが動いたとたん、工藤はかすかに姿勢を崩した。それも失敗のひとつだった。上へ行くとばかり思い込んでいたのに、エレベーターは急速に沈下しはじめたのだ。  工藤はちらっと女を眺めた。視線が合い、女が笑った。 「まあまあ、とうとうしのびこんでしまったようね」  工藤は辛うじていつもの笑顔を見せた。「白状しなさいよ。あなたここははじめてなんでしょう。パスを持っていないわね」  女は微笑しながら言った。無遠慮に工藤を値ぶみするように眺めまわしている。工藤はもう欺し切れないと覚ると、首をゆっくり振って苦笑した。 「やっぱり……それで下へ降りてどうする気なの」  工藤は上着のポケットからメモ用紙をとり出し、素早く書いて渡した。  ——わからない。どうなるのですか——  女はそれを読み、怪訝《けげん》そうに首を傾けて言った。 「なぜ……」  メモを工藤の顔の前につきだし、しばらく彼の口許《くちもと》をみつめていた。「あなた喋れないの」  工藤はうなずいた。唇を指さし、次にその手を横に振った。女は意外そうにみつめていたが、やがてその瞳に微妙な変化があらわれた。 「困るわね」  つぶやくようにそう言った。視線を床に落し、壁にもたれて考え込んでいた。工藤の立場が困るというのか、こういう所へまぎれ込んで来ては困るというのか、どちらともつかない言い方だった。  それにしても長い沈下だった。エレベーターはいつまでも沈み続けていた。工藤は耳鳴りがして何度も唾《つば》をのみ込まねばならなかった。が、やがてエレベーターの中に制動の気配がつたわり、減速しはじめた。 「地面の下よ」  女はからかうように言った。  エレベーターが停り、静かにドアが開いた。工藤は目の前にひろがった光景に息を呑んだ。それは巨大なドームの中だった。楕円《だえん》形をした底辺から、彎曲《わんきよく》した無数の柱が見事な幾何学的秩序を保ってビルの四階ほどの高さに伸び、見あげれば目まいを催すほどの豊かな人工の空間を作り出していた。柱は多分鉄骨のはずだが、淡いブルーに塗られていた。 「光源が見えないでしょう。光る壁を使っているからよ。地上ではまだ商品化されていないけれど」  茫然としている工藤をエレベーターから押し出すようにした女は、低い声でそう教えてくれた。まさにここは別天地だった。「ついていらっしゃい」  女はまたそうささやきかけ、先にたって歩きはじめた。そこは丁度《ちようど》町の中心の広場のような場所だった。花壇が作られていて、草花が咲き乱れていた。 「花は上から運んで来るのよ。ここにないものは本物の太陽だけよ」  女はそう言った。だが工藤が見たところ、ないものはまだ沢山あった。地上の街の騒音がない。スモッグがない。押しあいへしあいする群衆の姿がない。排気ガスをまき散らす車もなかった。人影はまばらで、ゆったりと静かだった。時折り通る小さなスクーターのような乗物は、無公害の電気自動車に違いなかった。ホテルのロビーと同じように、どこからか微《かす》かにソフトなメロディーが流れていた。道の端には小さな溝《みぞ》が作られていて、清冽《せいれつ》な水が流れていた。  大ドームの壁の左右に三本ずつのトンネルがあった。地底ということを意識しなければ、それは三本ずつの道路が伸びていると言ってもよい。女はその一本をかろやかな足どりで進んで行く。工藤はそれ以外仕様がなく、素直にあとに続いた。  驚いたことに、マーケットがあった。店員の姿は一人しか見えず、大きな店内にありとあらゆる日用品が並んでいた。道路に入ると、一定の間隔でドアが並んでいた。だが窓は見当らなかった。考えてみるとここは地底の町だ。窓がなくても別に不思謙がることもなさそうだった。  完全なエアコントロールが行なわれているらしい……工藤はそう思った。吸い込む空気がばかに爽《さわ》やかな感じだった。いったいここにはどれほど厖大《ぼうだい》な金がつぎ込まれているのか、工藤には見当もつかなかった。  やがて女はひとつのドアの前で立ちどまり、少し遅れてついて来る工藤を見た。彼が足を早めて追いつこうとすると、女はさっとドアをあけて中に入った。 「早く入ってドアを閉めるのよ」  ドアの前に立ちどまった工藤へ、女はじれったそうに言った。工藤は家の中へ入った。 「気がねすることはないのよ。さっきも言ったように主人も子供も出かけてしまっているから、私ひとりだけなのよ」  女はソファーに深ぶかと身を沈めて言った。工藤は家の中を見まわしながら、女の正面にある椅子に坐った。 「私筆談したことがないの。興味あるわ」  何か工藤に書くことをうながしているようだった。  ——ここはどういう所なのです——  工藤は書いた。 「そうね、東京が首都なら、第二の首都っていうところかしらね。地底にできた都市よ。まだ都市というほど大げさではないかもしれないけど、町であることはたしかね」  ——どういう人が住んでいるのです—— 「言ってみれば高額所得者ね。でもそれだけじゃないわ。一定のレベルの教育と然《しか》るべき家柄……」  ——貴族—— 「貴族はちょっと大時代すぎるわ。そうね、エリート……あんまりしゃれた言い方じゃないけど」  ——僕は全然知らなかった—— 「それはあなたが住んでる階層が……言っちゃ悪いけど少し低いからよ。一部の人たちの間では公然の秘密よ」  工藤は欺されていたと感じた。  ——もっとよく知りたい—— 「それよりお酒いかが」  女はそういうと立ちあがって次の部屋へ消えた。「ここを出ればあなたはつかまる以外にないのよ。黙って入りこんだのだから、きっと酷《ひど》い目にあうわ」  声だけが聞えていたが、女はすぐにグラスをふたつ手にして戻って来る。工藤は不安を鎮《しず》めようとして一気に飲みほした。     6  女はよく喋った。工藤にはだんだんこの地底の町の仕組みが判って来た。欺されていたという感じが急速に強まり、冷たい憤りに変って行った。その憤りは女の誘いにのることでぶち撒《ま》けられた。  はじめこの町は近代的な地下住居の可能性を研究する小規模な実験場としてはじまった。それは首相官邸の地下に戦前からある退避壕《たいひごう》を拡大したものだった。それを予算的に推進させたのは、政府高官の核兵器に対する懼《おそ》れだった。実験場は更に深く掘り進められ、規模を大きくして行った。物資の備蓄と水源の確保、動力源の整備が進み、空気循環系と地下構造の安全性が増して行った。地底の町はそこで第二の時期へ入った。高速道路網の整備と地下鉄網の拡大が地上ではじまったのだ。都市開発の動きがそれに加わり、騒音、排気ガス等の公害がそれにからんだ。  地底の町に対する現実的な需要が発生したのだ。地下の実験を知る者は殆《ほと》んどが時の権力につらなる富裕な階級だった。彼らは、都心の地下に理想的な住居を作れば、喜んでそこに入居するという意志を表明した。それは保守政権の核心を形成する有力な市民たちの意志だった。極秘の内に計画が進められ、道路、地下鉄の建設をかくれみのに、都心の地下に町がひろがって行った。それらは巨大な費用をのみ込む大プロジェクトだったが、有能な官僚がいつも見事に予算を処理して行った。秘密が厳重に守られたのは、このプロジェクトに関係した大手建設会社が、常に権力の動向に密着せざるを得ない立場に置かれているからだった。  木賃《もくちん》のアパートの庶民は郊外の庭つき一戸だてを終生の夢としている。そこから多少脱出した成功者たちも、伊豆《いず》や上信越《じようしんえつ》の地に別荘地を購《あがな》って事足れりとしている。しかし最も富裕な階層は、都心の地底にある超近代都市を知っていたのだ。このマンモス都市東京をまかなう為《ため》、電気、ガス、水道その他、多くの公共施設が建設され続けて来たが、その最もコストの高い部分は、一般市民と全く関係のない地底の町を支える部分だったのだ。  地底の町に本格的な入居が始ると、遂《つい》に公共の為の実験場であるという名目では言いのがれ切れなくなった。そのために出入口が限定され、秘密を守る厳重な対策が講じられた。  女は驚くほど強靭だった。とぎれとぎれに、愛の言葉のかわりに地底の町の断片を語りながら、工藤のセックスを賞味しているようだった。やり場のない憤りが手つだって、工藤は女の上で荒れ狂った。六年ぶりに吐きだす精力は、いくらでも尽きぬのではないかと思うほどだった。女は次第に圧倒され、悲鳴に似た声をあげた。陽《ひ》ざしの動かぬ地底の家で、工藤は時間の観念を狂わせていた。夜か昼かさえ判らずに女を責め続けた。「パスをなんとかしてあげる……また来て。また逢《あ》って」  女は時々そう口走るようになり、やがてそれが断固とした言い方に変って行った。  ——すばらしかったよ——  工藤は何度目かのからみ合いのあと、そう書いて女に渡した。女はそれを読むとけだるげに裸のバストを押しつけて来た。 「ほんと……」  工藤は仰臥《ぎようが》したままで顎を引いて見せた。 「うれしい」  女は低くそう言うと、すぐに寝息をたてた。工藤はじっと目を閉じて三田のことを考えていた。  多分彼は地底の町の秘密を嗅《か》ぎつけたのだろう。地底への入口が、地上二十九階にあることを知ったのだ。彼はその秘密を利用してひと儲けしようと企んだに違いない。地底の町へなら、いくらでも品物を売りつけられると踏んだのだろう。しかし三田は権力とその周辺にある仕組みを甘く見すぎていた。あっと言う間に殺《け》されてしまったのだ。  大声で叫ぶべきだったのだ。地底の町を暴《あば》きたてるべきだったのだ。だがこうした場合、誰が大声で叫ぶだろう。それよりも相手にとり入って、何とか木賃アパートから脱出しようとする方が常識的な行動ではないのか。権力側の秘密を暴くには勇気がいる。理窟《りくつ》ではそれが正義だと判っていても、実際に行動に踏み切れる者はまずいないと言えよう。  だが俺はやってやる……工藤はそう決意した。唖がこの社会へ入りこめたとしても、精々がガードマンか清掃夫程度でしかない。望みのない将来なら、いっそのこと、この裏切りの町を告発することに賭《か》けてやれ……そう思った。     7  工藤は睡《ねむ》っている女を縛りあげ、パスを奪った。女のパスだがないよりはましだった。情事の最中に女が口走った言葉など信用する気になれなかった。彼は女の家を出るとあのドームの広場へ戻り、エレベーターに乗った。無事に二十九階を脱出し、その足で新聞社へ向った。警察へ行くのは愚《ぐ》の骨頂《こつちよう》だった。新聞社では最初唖の工藤をまるで相手にしてくれなかった。だが彼は根気よく粘《ねば》った。たらいまわしにされ、待たされている間、彼は書きに書いた。地底の町のことを、知っている限り洗いざらい書いた。新聞社では半信半疑の様子だったが、それでもやっとメモを受け取って調査を約束してくれた。  だが新聞社を出たとたん、彼は追われていることに気づいた。敵は新聞社の中にもいたのだ。いち早く通報され、追手がさしむけられていたのだ。  そうなれば、新聞社が約束した調査もあてになりはしなかった。工藤は逃げまわり、とうとう勝手知った尾久の家具倉庫へ逃げ込んだ。  しかし追手は思ったよりはるかに素早かった。夜更けの、ひとけのない家具倉庫の二階にひそんでいると、いつもなら真っ暗に静まり返っているはずの事務所にあかりがついた。小さな窓からそっとのぞくと、あかあかと蛍光灯《けいこうとう》がともった事務所の中で、制服姿の男たちが何人も動いていた。  鷹のマークのガードマン……そのガードマンたちの会社がどういう名前かさえ、工藤は知らない、そこまで調べるひまもない内に、彼は追いつめられてしまったのだ。とにかく尋常な相手でないことは、外の道路に警察のパトカーが停っていて、正規の警官とガードマンが、工藤のひそんでいる倉庫を指さしながら、親しげに打合わせのようなことをしているのでも明らかだった。  警察もグルになっている。……工藤はそう思うと家具の並んだ闇《やみ》に顔を向けた。一階と二階に七、八百点の家具が置いてある。彼は暗がりの中で靴《くつ》を脱ぐと、そっと家具の間をすり抜けながら、最高級家具の一群が置いてある二階の一番奥まった方角へ向った。  ヨーロッパの高級収納家具には、隠し戸棚《とだな》や二重底を細工したものが多い。いま彼が向っている衣裳だんすもそのひとつだった。  側面に巧妙に隠した引き戸がついていて、その中には人ひとりが楽にしのびこめる空間がある。引き戸は中からも開閉することができて、間男《まおとこ》が咄嗟《とつさ》にとびこむにはもってこいの場所になっている。そこへひそんでしまえば、連中がやって来て七、八百点もある家具のひとつひとつを調べてまわったとしても、家具の専門家でない以上、ちょっとやそっとでは見つかるまいと思えた。  やがて倉庫の扉をあける大きな音が聞え、男たちの靴音が乱れ響いた。家具の扉を開く音や板を叩くうつろな音が入り乱れ、何時間も続いていた。工藤はその間じゅう、じっと衣裳だんすの間男用の空間に体をすくめてひそんでいた。 「結局ここにはいないということか」  多分ガードマンのリーダーだろう。工藤を探し疲れたのか、元気のない声だった。ギイッ、ギイッと木のきしむ音がする。工藤はそれが自分の隠れた衣裳だんすのすぐ傍にある、イギリス製のロッキングチェアの音だと判った。 「そんなことはあり得ないんですがねえ」  別の声が言った。「何しろこの数の家具だから、まだうまくどこかに隠れていやがるんじゃないですか」 「その可能性もある。もうすぐここの連中が出て来る時間だ。そいつらにもう一度探させてみよう。それ迄《まで》はここで頑張る」 「ここにずっと我々がいていいんですか」 「大丈夫だ。ゆうべの内にここの社長と上のほうの連絡が取れてる。おかげでこの会社はひと儲けするぜ。全く凄《すご》い家具が揃《そろ》ってやがるなあ」 「課長もひとつどうです」 「冗談じゃない。俺はまだ公団住宅にいるんだぜ。こんな物を入れたら笑われるよ」 「でもその内出るんでしょう」 「そりゃ出たいさ。でもな、マイホームなんてのは夢みたいなもんさ」 「ねえ課長。もし近い内お出になるんでしたら、うまくそのあとへ入れさせてもらえませんか」 「そうか、子供が生れるんだったな」 「ええ、今のアパートは追い出されるんですよ」 「うまくタイミングが合えばいいがな」 「お願いしますよ」 「おい誰か来たんじゃないか」 「そうらしいですね」 「行こう。煙草《たばこ》をちゃんと消せよ」  ギイッと椅子を離れる音がして、二人の足音が遠ざかって行った。工藤は狭い闇の中で怒りを燃えあがらせていた。あのガードマンたちの愚かさはどうだ。住む家もろくにないくせに、あの地底の町を守ることに夢中になっている。本来なら自分と一緒にあの不正な住居を叩きつぶすべき人種ではないか。  工藤はとび出して行って、彼らの前でそう怒鳴りたかった。説得して、一人でも同調者を作りたかった。だが彼は喋れなかった。怒りをぶち撒けて喚《わめ》きたてることさえできない不具者なのだ。  ガタガタと階段を登ってくる足音がした。 「あの突き当りですよ」  聞き覚えのある声だった。ことし高校を卒業して入社したばかりの若い男の声だ。この倉庫のすぐそばのアパートに住んでいる。陽の当らない三畳の部屋だ。  馬鹿が……。工藤は不運を呪《のろ》った。仲間が彼の隠れ場所を指摘しているのだ。彼を追っている連中は、みなあの地底の町に裏切られている者ばかりだった。こんな愚かしいことがあってたまるか……工藤はこぶしをにぎりしめて怒りにふるえていた。  すぐそばでガタピシと板を外す音がした。「なる程。舶来家具ってのはこんな細工がしてあるんだな」 「外国の亭主《ていしゆ》ってのは油断できないだろうなあ」 「なんで」 「かあちゃんがこんな所へ間男をかくしたりするからよ」 「若い娘をかくしたっていいんだぜ」  ガードマンたちはそんなことを言い合いながら、次第にフランス製の衣裳だんすに近づいてきた。工藤はあきらめて自分から引き戸をあけた。 「あっ……」  制服の男たちが一斉《いつせい》に叫んだ。どの顔も善良そうだった。屋台《やたい》の酒が似合う顔だった。  工藤は怒りと悲しみに体をふるわせていた。むしょうになさけなかった。彼は、う……と呻《うめ》いた。そして叫んだ。 「だから貧乏人は……」  声が出た。舌が動いた。だがそれっきり工藤はまた唖に戻って立ちつくしていた。 [#改ページ]   村 人     1  七月下旬の、湿気をたっぷりと含んで粘りつくような空気が、ビルの谷間に揺れている。車の列が続き、青い排気ガスが渦《うず》を巻く。その両側の歩道を、せかせかと急ぎ足の男女が通りすぎて行く。左腕に脱いだ上着をひっかけた若い男が、連れの男に笑いながら言い、通りすぎて行った。 「グアム島へ行くの……くだらないね」  目の前を派手なワンピースを着た若い女が、薄い紙封筒を手に、銀行の自動ドアを通って中へ消えて行く。  その老人がどの方角から来たのか、恐らく誰《だれ》も気づいた者はいないだろう。痩《や》せて小柄で、陽焼《ひや》けした硬そうな肌《はだ》には深い皺《しわ》が刻みこまれている。  鼠《ねずみ》色の古ぼけた夏物の背広を着て、縫い目のあたりの皺の様子だと多分本職のクリーニング屋の手にかかったのではないらしいワイシャツに紺のネクタイ……それも不器用にしめあげたのでワイシャツの左の襟先《えりさき》を上へはねあげてしまっている。  つまりどう見ても普段背広を着慣れている人物ではなく、田舎の老人が大会社の本社をたずねて上京し、一応服を整えてこの丸の内|界隈《かいわい》へ辿《たど》りついたと言う感じだ。  老人は銀行の入口の上にある文字を眺《なが》めて首を傾《かし》げ、ゆっくりと歩きはじめる。薄いカーテンを引いた銀行の大きなガラス窓が途切れると、お濠《ほり》ばたにつき当る小さな四つ角になっている。老人はためらいながらその角をビルにそって曲り、別な入口をみつけるとほっとしたような表情でその中へ入って行った。  入口の上の、ビルの一階と二階の間の壁には、興国《こうこく》電機本社、という黒い文字が浮き出していた。  興国電機輸出第一課の課長|大野国弘《おおのくにひろ》は、自分のデスクの横の白いカバーがかかったソファーに坐《すわ》って、同僚の一人と雑談しているところだった。 「莫迦《ばか》言っちゃいけない。そのあとが上出来だったんだ。例のギャラリーの一人を攫《さら》ってな」 「銀座《ぎんざ》のか」 「そうさ。どういうわけかあの日は道がすいてるんだ。箱根《はこね》のハイウェイをひとまわりして伊東《いとう》まで突っ走った」 「なるほど。それで連中は文句言ってたんだ。いちばんいいところをあんたに持って行かれちゃったって」  大野はこんがりゴルフ焼けした頬《ほお》に微笑を浮べ、ベルが鳴りだしたデスクの電話に手を伸した。 「神谷《かんみや》さん……ああいいよ。待たしといてくれ」  機嫌《きげん》よくそう言い、電話を置くと、 「客らしい」と立ち上った。同僚は軽くうなずいて、部屋を出て行く大野を見送っていた。 「神谷さん……とおっしゃいますと」  小さな応接室の椅子《いす》に腰をおろして、大野は不審そうに相手を見た。 「神谷|清兵衛《せいべえ》と申します」  小柄な老人は大野の眸《め》をみつめながら答えた。「能登《のと》の山並《やまなみ》村の者です」 「山並村……」  大野の心の底で何か不愉快なものが動いた。 「あんたさんは石川《いしかわ》県の山並村にご縁をお持ちのはずで、それでおうかがいしましたのです」 「石川県のねえ……」  大野はセブンスターをとりだし、ダンヒルのライターで火をつけた。「失礼ですがあなたは山並村のどういうお方ですか」 「どういう……と言いますと」  おそろしく鈍い表情で老人は問い返して来た。そういう鈍さは大野にとって久しぶりだった。どんよりとした半透明の幕をおろしてしまったような相手の鈍い表情の裏に、何かいやしげなものが隠されている気がした。 「村の役員の方とか何か、そう言ったお立場ではないのですか」  つい言い方が突慳貪《つつけんどん》になった。 「なんも……そんなものははや、おらんがになってしもうて」  老人はお国訛《くになま》りになり、つぶやくように答えるとゆっくり首を左右に振った。  大野は眉《まゆ》をひそめて天井の蛍光灯《けいこうとう》をみあげた。気分ばかりでなく、その細長い光の管までが、急にいつもより暗くなったように感じられたのだ。 「たしかに、私の祖父は能登の山並村の出身だったそうです。祖父もとうになくなりましたし……山並村といいますと、私にとってもう随分古い話になりますなあ」  大野は回想を粧《よそお》って腕を組みながら言った。しかし心の中には老人に対する警戒心が、嫌悪《けんお》を混えて湧《わ》き上っている。 「だれもおらんがになってしもうて」  老人はすがるような目付きでまた言った。遠まわしに何かをねだっているようで、大野はますます嫌《いや》になった。 「それで、ご用件は何でしょうか」  老人の持ち込んだ土俗的な雰囲気《ふんいき》をふり払うように、ビジネスライクな表情に変え、テキパキした口調で尋ねた。  だが老人はそれに反応せず、むしろ抗《あらが》うように、いっそう炉ばた臭い態度で、左手の甲を右手の指でさすりながら、 「若い衆《し》が都会へ出て行きはじめたのは、もうだいぶ昔のことになります。何《な》ンもこれと言うてとれるものもない村やさかい……それはそんながやけど、まさか誰もおらんがになってしまうとは思うてもみんことやった」  老人はそう言葉を切ると、じっと手の甲をみつめて沈黙を続けた。  大野は二度ほど椅子の上で坐り直し、その沈黙を無視して老人の次の言葉を待とうとした。しかし相手の間《ま》はとほうもなく長く、とうとう大野のほうから喋《しやべ》り出してしまった。 「過疎状態になったわけですな」 「諾《おいね》。過疎やがいね。過疎も過疎、もう誰もおらん」 「それは困りましたな。するとあなたおひとりですか」 「一人もおらんがになってから、もう四年たちます」  鈍い光を放つ老人の眸《ひとみ》が潤《うる》んでいるようだった。「あんたもう道という道には草がこんなに茂ってしもうたし、橋も半分は腐ってしもうて、田んぼや畑はとうに山と見わけがつかんようになってもうた。……なあ、あんたさん。帰ってもらえんもんやろうか」 「はあ……」 「山並村へ帰ってもらえんやろか。東京のこんな立派な会社に働いておってやから、すぐにと言うても無理やろうけど、山並村はあんたさんのふる里や。祖父《おじじ》の出なさった村や」  大野は弾《はじ》けたように笑い出した。 「いや、判りました。よく判りましたよ。しかし、僕が山並村へ行くなんて、とても考えられませんよ。そりゃ、二日、三日の旅で祖父の村を訪ねるんなら出来ない相談じゃありませんが、僕はちゃんと東京に仕事もあれば家庭も持っている。それを棄《す》てて今更能登の山並村へ引っ込むなんて考えられませんよ」 「そりゃ、あんたさんの言うことはよう判ります。そやけど、儂《わし》はその上でこうしてお願いにあがっております」  老人は言葉をあらため、両手をテーブルの上にのせて頭を低くしながら言った。「今から二十七、八年も昔のことになってしもうたけれど、あんたさんはおら村に住んどった人やさかいに」 「ちょっと待ってくださいよ。それは戦争中疎開してた頃《ころ》のことですよ」 「あの頃は、血と縁がつながっている東京のもんは、みなおら方《ほう》へ集って来たものです」 「戦争だったからですよ。生き死にの問題だった」  老人は手を振って言った。 「恩に着せるわけやない。そやけど今はおら村の生き死にの境や。人が一人もおらんがになってもうても、一年や二年で村は死ぬようなもんやない。道も橋も、人が住んどった家々も寺も、人が戻ればすぐにまた使えるよう、村は生きて待っとる。でもな、あんたさん。四年五年六年と時が過ぎてみい。家は崩れる橋は流れる。田も畑も道も山と同じがになってもうて、村は死んでまうのや。帰って、ほんのいっときでもいい、住んでやってもらえんやろか。儂もそう長い命やないやろけど、村から出て行ったもんを呼び戻してみるさかいに。村の命を絶やさんといて欲しい。このとおりや」  老人は合掌して目をとじた。 「神谷さん、やめてください」  大野は憤然として言った。「僕の故郷は山並村じゃありません。この東京で生れ、東京で育ったんです。祖父は山並村の人ですが、極言すればそれと僕とは何の関《かか》わりもない。誰にだって父があり祖父があり、曾祖父《そうそふ》がある。元をたどれば日本中の人間が今いる土地の人間じゃない。山並村だって天地のはじめからあったわけじゃないでしょう。誰かがどこかから来て村を作ったんだ。そうでしょう。たしかに住人が一人もいなくなった村というのは悲惨ですよ。お気の毒に思います。しかしそれも時の流れというものではないでしょうか。あの村はたしか能登半島の脊梁《せきりよう》 部に当っていましたね。内浦へも外浦へも似たような距離がある。道路や鉄道の便にも恵まれていない。耕地も少く産物も特にない。競争の激しい現代、そういう土地の人口がどんどん流出して行くのはやむを得ないじゃありませんか。それを……僕に帰れだなんて、的《まと》外れもいいところでしょう。最近村からお出になった人々のところは全部おまわりになったんですか」 「そりゃもう、百万|遍《べん》も頼みまわったわいね」  老人は明らかに気分を害した様子で強く言った。「どいつもこいつも、二度と帰らん気でおる。こんな都会のどこがようて……すうて見い、この腐った風を。村におった時は三十|坪《つぼ》や四十坪の家には住んどった。子《ぼんち》らが道をなんぼ走ったかて、車や人に当って怪我《けが》をするようなことは起るはずもなかった。儂は一人一人訪ねて行って見た。ところが、山並村よりいいとこに住んどるもんは、一人としておらなんだやないか。アパートたら言う納屋《なや》みたいな家の狭い部屋に、親子四、五人が足の踏み場もないような暮しをしとる。あんたさんはどう思うてや知らんけど、こんな世の中は長いことない。みなそれぞれの村へ戻って行く時が来るに違いない。それまでの辛抱や。誰か一人でも二人でも、村に住んで村を生かしとって欲しい。戦争かていつ起るやら知れん。あんたさんかてもう子がおありやろ。また疎開せんならんかも知れんやないですか。血のつながり縁のつづき……そら大切なこっちゃ。あんたさんはいま、日本中の人間が元をたどればどこかのよそもんやと言うた。しかしな、お祖父《じじ》の代と縁を切るんやったら、いずれあんたさんとあんたさんの子《ぼん》の縁も切れるようなことになってしまうのや。あんたさんは今、祖父《じじ》の代と縁を切った気になっておいでやが、そんなことをすれば、あんたさんの子《ぼん》は父《とうと》の代と縁を切るかも知れん。若い衆《し》が外国へ行てもうて、俺《おら》の父《とうと》は日本人やけど、おらここに暮しとるのやさかい、日本とはなんも関係がないてなこと言いはじめたら、村の命も町の命も、国の命かてないようになってしまう。そやないですか」 「そういう理論もなりたちます。否定はしません。しかし僕は現にこうして東京のどまん中に生活しているんです。この会社にいるということは、現代の社会機構の中枢部にいると言ってもいいでしょう。山並村へ帰るんならほかの人にしてもらってください。僕はここに必要な人間なんです。たしかにあなたのおっしゃることには筋の通っている部分がある。あなたに言われて僕もいま故郷というものについて考え直す気になりはじめてはいる。しかしあなたの論旨は大きすぎますよ。とても重要だとは思うが大きすぎる。僕ごとき人間の手には負えない感じだな」 「そんなむつかしいことやないでしょう」  老人は焦《じ》れったそうに言った。「山並村へ行って、米でも麦でも芋でも、好きな物を作ったらそれでいいのやないかいな。田も畑も家も、好き勝手に使うて誰も文句を言いはせんのや。稲を作るなら四郎三郎《しろさぶろ》の田が一番いい。畑なら日和山《ひよりやま》のハナの藤《とん》兵衛《べ》新宅のがいい。両方使うとすれば、ほれ、この御坊様《ごぼさま》の下の四郎太《しろた》の家がいちばん都合がいい」  老人はポケットから村の地図をとり出し、テーブルの上にガサガサとひろげ、ごつい指で場所を示した。「橋がちょっこり傷んどるが、こんなもんすぐに直せるし」  大野は地図と老人の顔を半々に見ながら、無意識に薄笑いを浮べていた。ひろげられた地図は和紙を六枚|貼《は》り合わせた上に筆で描かれた古めかしい鳥瞰図《ちようかんず》だった。     2  銀座裏。夜。  ドアをあけるとすぐ右側に馬蹄《ばてい》形に壁から突き出したカウンターがあり、まだ宵《よい》の口のことなので、ホステスたちがスツールに並んで腰かけていた。  大野が左手のボックス席の方を覗《のぞ》くようにした時、カウンターの女たちの間から男の手が挙《あが》った。 「ここだよ大野君」  四十代の終りか五十を幾つか出たばかり、と言った年輩の細面《ほそおもて》の男が、柔和《にゆうわ》な笑顔をみせて呼んだ。ホステスが二人ほど高いスツールを降りて近寄って来た。 「よう」  大野は女たちに軽く挨拶《あいさつ》をして男の方へ行った。「お待たせしましたか」 「いや……」  男は大きなタンブラーに浮いた氷を鳴らしながら答え「いいよ、向うへ移るから」と隣のスツールをあけかけたホステスに言った。 「忙しいのに呼んでしまったのかな」 「いえ、そうでもありません。たまにはまっすぐ家へ帰ってみるかなどと、柄《がら》にもないことを考えていたくらいですから」  大野は男と連れだってカウンターを離れ、ホステスが案内する席へ向った。 「それは悪い事をしたな。いくら社用でもそう毎晩飲まされたんじゃ体が保《も》たん。それに我々は仲々家庭サービスという奴《やつ》をする機会がないからな」 「ほう……」  大野は青いソファーに坐《すわ》りながら言う。「常務はご家庭を大事になさるほうだという噂《うわさ》ですが」 「噂だよ、そんなのは。そろそろ銀座をやめる歳《とし》なんだが、君のとこと同じさ。なんだかんだ結局は呑《の》むことになる」 「今日はお疲れらしいのよ。さっきから変にしんみりなさって」  常務の隣に坐ったホステスが言った。大きな臙脂《えんじ》の玉をつないだネックレスをしていた。 「彼も水割りだ。それにちょっと話があるから」  常務が意味ありげに言うと、ホステスはうなずき、オーダーを聞きに来た男に、 「いいわ、私が取りに行く」  と言って立ち上った。途中まで近付いて来ていたホステス達がカウンターへ引き返して行く。 「関西支社の飯岡《いいおか》が死んだよ」 「えっ。飯岡常務が」 「うん。君とは縁つづきだったそうだが、気の毒なことをした。今日の午後本社へ報《しら》せが入ったんだが」 「縁つづきと言いましてもひどく遠い関係で、大したおつき合いもないんですが、それより常務の方がショックでしょう。何しろ関西の飯岡さんと東京の田代《たしろ》常務と言えば……」 「まあな」  田代は無表情に灰皿をみつめて言った。スコッチの瓶《びん》にアイスペール、タンブラーがふたつにオードブルの皿と、大げさな仕度が運ばれて来てテーブルの上がいっぱいになる。 「飯岡の奴、まずい死に方をした」  田代は赤いプラスチックのマドラーをつまんで低音でいう。 「まずい死に方……」 「ゆうべ女のマンションに泊った。キタのホステスだ。俺《おれ》もよく知ってる女だよ」 「女の部屋で」 「そうだ。発見されたのは今日の昼すぎ。どうも警察|沙汰《ざた》になっているらしい」 「と言いますと」 「ガスで無理心中……いや、まだそうと決ったわけじゃない。しかし第一報ではどうもそういうことらしい。女に道づれにされてしまったんだ」 「それはまずいですな」 「まずい。関西で社長派の叶《かのう》たちが揉《も》み消しに動いてるそうだ。叶たちの真意は判るだろう」 「叶さんたちにそれをやられると、会長側の失点が少し大きくなってしまいますね」 「それだよ。揉み消すには消すだろうが、社内的には大きな影響が出る。有力株主の間には当然知れ渡るだろう。それをしない叶たちじゃない」 「時が時だけに困りますね。今のところ五分五分の均衡《きんこう》を保っていたんですが、飯岡さんが一人減った上にマイナス・アルファがついてしまうし……」  大野はタンブラーをとりあげて言った。 「そこで注文がふたつある」 「ふたつですか」  大野は怪訝《けげん》な顔で田代常務をみつめた。飯岡常務の死を聞いた直後から、そのひとつは判っていた。会長派の飯岡常務が手がけていたカナダのI社との取引に、社内のルール違反的な部分があったのだ。大野は輸出第一課長としてその秘密に一枚|噛《か》んでいる。 「そうだよ。ひとつは例のカナダの件だ。あの件に関しては俺が飯岡の責任を全面的に引継ぐ。だから今迄《いままで》どおりにやってくれ。もしまだ俺の知らない部分があるようだったら、明日にでももう一度どこか外で会おう。それ迄にそういう部分があるかないか、チェックして報せてくれ。あるかないかの連絡は社内電話でいい。明日は一日デスクで頑張《がんば》っているよ。そのほかにもいろいろ問題があるんでね」 「判りました」 「もうひとつは」  と田代は大野をみつめながらタンブラーに口をつけた。さっきまでの柔和さとは別人のように厳しい眸の色だった。 「しばらく動くな。縁つづきということで君は大阪へ行かねばならん立場になるだろう。しかし事態がはっきりするまで動くな。必要なら適当な所へ出張してしまってもいいぞ。この際君が大阪へ行くのは、いろいろと不確定要素の多い折から、こちら側にとって面白くない」 「よく判りました。お許しがあるまで大阪へは行きません」 「そうか」  田代はタンブラーをテーブルに置き、超薄型の腕時計を見た。「これでひとつ済んだか。大阪の件で一度に忙しくなってしまったよ。今日は帰れんかもしれん」  そう言って田代は腰を浮かした。 「じゃ僕も」  大野が言うと田代は手を振って、 「いいんだ。ゆっくりして行け。たまには仕事じゃなくて遊んでみろ。則子《のりこ》がさっきからこっちばかり見てる。この間のコンペのあと、攫《さら》いっぷりが鮮やかだったと評判だぞ」  大野は思わず首をすくめて田代を見た。またいつもの柔和な表情に戻っていた。 「どうしたの、今夜は。莫迦に機嫌がいいのね」  田代常務がはやばやと引きあげたあと、大野のテーブルにはホステスが五人ほど集っている。 「ほう、機嫌がいいように見えるか」 「田代さんの伝票だから……」 「莫迦言え。今日のはちょっとしたやけ酒だよ」 「あら、何かあったの」  大野のとなりにいる則子が真顔で言った。いずれ飯岡の不慮の死は、このクラブでも噂になるだろう。とすれば、今夜上機嫌で騒いでいたとあっては具合が悪い。大野は迂闊《うかつ》さを反省し、態度を微妙に改めて見せた。 「世の中は判らんもんさ。人間あしたどうなるか判ったもんじゃない」 「嫌《いや》ねえ、本物のやけ酒じゃないの、それじゃ」  ホステスの一人が笑いながら言う。 「まあいいさ、景気よく行こう」  大野はわざとガブ呑みしてみせた。  しかしワクワクするような期待感は消えなかった。彼はまだ若い。社内を二分する会長派社長派の対立抗争劇にしたところで、一応会長派についてはいるものの、地位を言えばその他大勢の一歩手前に小さな字で名をつらねているにすぎない。本気で争っている実力者たちにとっては、いわば将棋の歩《ふ》のような存在だ。ところがその歩が、飯岡常務の急死でたった今重要な地位に浮び上ったのだ。カナダとの取引の秘密と言っても、そう大したものではなし、どちら側にせよよくあるケースなのだ。だが問題はタイミングだ。この秋の株主総会で激突を予想される双方の力関係で、よくあるケースというのがそうも言っていられなくなっている。さっき田代常務が大野に大阪へ行くな、動くな、と言ったことは、百パーセント間違いなく社長派に通じるなという意味だ。数多い課長たちの中で、誰がそんな念を押される立場にいるというのだ。……とにかくこれで会長派の戦列に、一個の戦力として浮上したことは間違いない。この先どう局面が展開して行くか知らないが、とにかく面白いことになって来たものだと、大野は微妙に失意の酒を演技しながら、腹の底で北叟笑《ほくそえ》んでいた。     3  その夜大野はバーを二、三軒まわったが、やはり落着かなかった。三軒目のバーで則子に電話をすると、則子は少し酔った声で今夜はダメなのかと言った。帰ったあと、彼がやけ酒気味だったのをホステスたちが噂し合っていたらしい。大野はいっそう気分がよくなった。  則子との通話が終ると、大野は同じ電話で高輪《たかなわ》のホテルに部屋をとり、十一時を少し過ぎた頃《ころ》にはそのホテルのツインの部屋にいた。  シャワーを浴びてから自宅へ電話をする。 「大阪の飯岡常務が亡くなったんだよ」  そういうと、妻の喜久子《きくこ》は、「まあ」としばらく絶句した。縁つづきだったことは知っているし、社内の実力者と遠いながらも身内の関係にあることは必要以上に強調してあったから。 「だから今夜は帰れそうもない」  と言うとそれだけで簡単に納得したらしく、いつものような嫌味《いやみ》も聞かずにすんだ。ちょろいもんだった。 「あ、それからね、七時頃神谷さんという方から電話があったわ」 「神谷さん……ああ、あの老人か」 「居ないというと用件をおっしゃらずに切れてしまいましたけど」 「いいんだ、いいんだ。用件は判ってる」  大野はそう答え、電話を置いてからニヤリとした。おかしな人間もいればいるものだと思った。あんなどうにもならないことで一生懸命駆けまわってる老人もいる。……彼は幾分同情気味に昼間の老人を思い泛《うか》べていた。  十二時近くに則子がやって来た。かなり急いで来たらしい様子だった。 「何があったの、心配してたのよ」  則子はそう言って大野の胸にもたれ、唇《くちびる》を求めた。 「何でもないんだ」  笑顔でそう答えると安心したように微笑を返し、体をはなして立ち上った。息せき切ったような様子で服を脱ぎはじめる。則子は二人きりになるといつもそうだった。そして大野は則子という女の、そうしたてらいのなさが好きだった。肌はそう白いというほどではなかったが、柔かくすらりとした体つきで、性格はどちらかと言えば世話女房的なところがあったが、そういう性格は男好きのする派手な顔だちに紛れて、よくつき合わないと判りにくかった。  目の前で手早く全裸になると、するりと大野のベッドへもぐり込んでしまってから、 「嫌な人。ずっとみつめてるんだもの」  と手遅れな恥かしがり方をした。それが決して演技ではなく、早く裸になりたくて夢中だったのが判るだけに、ひどく可愛らしかった。 「昼間妙な爺《じい》さんが訪ねて来てね」  大野は則子の肌に掌を当てながら言った。則子が男たちの視線を集めるのは、そうやって愛撫《あいぶ》していると当然のことのように思えた。一度こういう状態に入ると、彼女はひどく好色なのだ。男たちはそういう女を本能的に見わけるのかも知れない。則子は積極的に反応し、触れてもらいたい部分へ自分から誘ったりする。 「能登のその村へ来て住んでくれというんだよ」  昼間の神谷老人のことを話すと、 「いやよ、そんな所へ行っちゃ……」  と、目をとじて恍惚《こうこつ》とした表情で答えた。大野はゆっくりと則子の体を掩《おお》っていた毛布を外した。光の中で仰臥《ぎようが》した則子の腰から下が、微《かす》かにうごめきつづけていた。 「行くわけがない」  そう言いながら、大野はかさなって行く。かさなりながら、あの老人が来た頃、大阪では飯岡常務の事件が起っていたのだろうと思った。  二日後常務の田代から連絡があった。大野の大阪行きは回避する必要がなくなったということだった。この二日の間に、上の方では何かが大きく動いていたのだろう。大野にはまだそれがどんなことなのか知るすべもない。しかしいずれそういう動きを関知できる立場になれる筈《はず》だ。……大野は野心を秘めて大阪へ発った。  遠いながら縁つづきということで、あく迄も私用の立場だったから、大野は用心の為にも関西支社へは寄らず、直接|阿倍野《あべの》区の飯岡邸へ向った。最後に訪れたのは四年程も前のことで、飯岡邸の辺りもだいぶ変っているだろうと思ったが、着いてみるとそう変化してもいないようだった。  かなりの広さの邸がしいんと静まり返り、やはり変死という事実が重苦しくのしかかっているようだった。  明日は葬儀ということで、かなりの人数が集っていた。中には明かに事情を知らず、単なる急死と思い込んでいる人間もいるようだったが、大野が焼香のあと通された広い座敷は、親類の控室のような形で、異様なほど沈んだ雰囲気《ふんいき》だった。 「ほんまにえらいことで……」  入るとすぐ、いかにも世話役を買って出そうな初老の小柄な男がずり寄って来て言った。その男は飯岡家とのつながりを自己紹介し、「ほいで、あんさんは」  と尋ねた。公衆浴場の経営者ということだった。 「申し遅れました。大野と申しまして……」 「ああ、東京の大野さんだっしゃろ。よう知っとります」 「そうですか」 「するとあんさんは、大野|孫吉《まごきつ》つぁんの」 「大野|孫吉《まごきち》は私の祖父です」 「ほな、同じ年やったかいな……酒田忠雄《さかたただお》というのを知っとりまっしゃろ」 「疎開で……」  大野は遠い記憶をたどって言った。 「それや。死によりましたぜ」 「同じ年でしたが、そうでしたか」  すると男はうしろをふり向いて、ひとかたまりになっている連中に声をかけた。 「こちらは東京の大野はんや」  するとみなぴたりとささやきをやめ、そろって大野に頭をさげた。どの顔にも、ひどくおぞましげなものが泛んでいた。  頭をさげた連中の中から二人ほど座を外して大野の傍へやって来た。 「えらいものを背負うてしもうたもんですなあ」 「は……」 「山並村のことですがな」 「ああ」  大野が要領を得ない返事をすると、三人ともひどく緊張した表情になった。 「まさか知らんのやないでしょうな」  と探りを入れて来る。逆に尋ね返すと、三人はびっくりした様子で顔を見合せ、山並村のことで妙な老人は来なかったかと言う。 「ああ、神谷さんのことですか」  そう答えると、あの老人が大野に対し、どんな態度をとっているかと、しつこく聞かれた。三、四日前に会ったばかりで、と言うと三人はかけ値なしに恐怖の色を泛べた。  三人が交互に語る話は、大野にとって薄気味悪いことばかりだった。  飯岡家の親類縁者の間には、ここ何年間か妙な不幸が続いていた。四十代、五十代を中心に、連続して当主が急死しているのだ。倒産してくびれ死んだメリヤス業者。店のまん前で車に轢《ひ》かれた米穀店主。団体旅行の弁当で中毒死した公務員。脳溢血《のういつけつ》、心臓|麻痺《まひ》、溺死《できし》……彼らの挙げる死因は際限もない程だった。 「それがあんさん、どれもこれも一度は山並村に住んだことのある者ばかりですね」 「はじめの内は、村を棄てた罰やなどと、言うには言うても、まあ軽く考えとったんやけど、だんだんに死人が多なって見ると、みな死ぬ間にその神谷《かんみや》とかいう年寄りに訪《たん》ねられとることがはっきりして来ましてン」 「ほう……」 「感心しとる場合やあらしめへんで。あんさんところへも来たんだっしゃろが」 「ええ」 「飯岡はんかて、二度会うて、三度目に会うたすぐそのあとにこの始末や」 「しかし殺されたわけじゃないでしょう」 「殺されますのやがな。とり殺されてしまうのや。山並村へ帰って来い言われたんだっしゃろ」 「そうですよ。断わりましたがね」 「断わった。死んだ者はみな断わった」 「断わると殺されるんですか」  大野は失笑した。三人はそれをとがめるように言いつのった。 「その通りですがな。わしら、親類言うたかて山並村の血筋の者やない。そやさかいにあの神谷《かんみや》という年寄りが訪ねて来ることもないが、これはたしかなことだっせ。あの年寄りに帰れて言われて帰らなんだら、みな死んでまうのや。たしかに殺されるのやない。警察が事件にするような死に方はせんのや。そういう死に方はせんのやけど、死ぬことは同じや」 「わてら気になりましてな。大阪中の、いや関西にいる山並村の出身者を手わけして訪ねまわりましたのや。どうです、みなあの爺さんに訪ねられて死んでしもとるやないですか」 「どないしやはるおつもりです」  大野は三人に好奇心の入り混った目でみつめられた。  翌日、火葬場で大野は関西支社の叶に声をかけられた。肥《ふと》った大男の叶はハンカチで首筋の汗を拭《ぬぐ》いながら、さりげなく言った。 「飯岡さんが亡くなって君もいそがしくなったろう」 「はあ」  大野はあいまいに答えた。遺族控室の入口にある、飯岡家、と書いた札の前だった。 「飯岡さんのことで何か不明な点があったら私に相談するといい。何しろ幅の広い動きをしていた人だから、こっちとしても東京の方まではまだ跡始末の手がまわりかねているんでね」 「さあ。今の僕の所には大した問題もないようですが」 「そうか……例のカナダの取引のことはどうなっている。順調か」 「はい」  大野は田代常務の顔を思い泛べ、ことさらはっきりと言い切った。……全責任を俺が引継ぐ。田代はそう言っていた。 「そうか」  叶は短く言うと、すっと傍を離れて行った。そのうしろ姿を見送りながら、大野はふっと溜息《ためいき》をついた。どうやら無事に済んだらしいと思った。     4  則子との関係がどんどん深間にはまりこんで行った。大野は今迄にも随分浮気をして来たが、則子のような女ははじめてだった。肌が合うというのか、彼女といるとひどく寛《くつろ》げたし、男としての自信が湧いて出るのだった。  これ迄の例だと浮気も程々にして、深入りの一歩手前で踏みとどまり、意識して別な相手を探しはじめたりするのだったが、則子の場合はまるでそんな気が起らなかった。  則子のほうも大野によく尽し、心底惚《しんそこほ》れているようだった。自然則子のすまいの事が問題になり、秋のはじめには大野が金を出して三田のマンションへ移った。  そう高級な部屋でもなかったが、今どきのマンションは借りるとなると大野のポケット・マネーぎりぎりの金が掛った。則子はそういう大野の事情を察し、ひどく感謝している。ベッドや敷物、カーテンのたぐいを自分の金で新調し、大野専用だと言って高価な外国製の椅子を買い込んだりした。  そういうわけで則子の部屋ではちょっとした新婚気分が味わえ、充分に愉《たの》しかったが、惚れただけに則子はつい店で口をすべらすらしく、あっという間に噂が拡《ひろ》まったようだった。それをとがめると、則子は鼻を鳴らし、 「だって惚気《のろけ》たいんですもの」  と甘えた。  しかし会社のほうは情事ほど好調ではなかった。一時はあれ程胸を躍《おど》らせた田代常務との関係も、先方から大した連絡をして寄越さないのでは期待外れだった。上意下達の組織の中では、上からの意志がなければ下でいくらあがいても仕方がない。そのことは大野も充分に心得た歳《とし》になっているので、とにかく旬日に迫った株主総会の動きを待つことにしていた。  が、不安や焦りはやはりどうしようもない。成りゆきまかせの外泊が多くなり、則子に溺《おぼ》れるたび妻の喜久子の態度が硬化していく。そのたび大野は総会が近いことを理由に切り抜けているが、昇進でもない限り胡麻化《ごまか》し切れなくなりそうだという予感が強まって、受験生が合格発表の日を待つような気分で総会が近づくのを見守っていた。  その総会がいよいよ明日という日の午後、大野は呼出しを受けて役員室へ行った。  ガランとした役員室に、社長派の大物が二人と、関西支社長の叶が待っていた。 「掛けたまえ」  叶は冷い表情で言った。 「ご用件は」  与えられた椅子に坐って叶と向き合うと、叶はいきなりデスクの上の書類を叩《たた》いた。 「これはいったいどういうことなんだ」 「何のことでしょう」 「I社とのことだ。四万五千ドルも浮いてるじゃないか」  大野はあっと思った。その金はI社関係のある外人にリベートとして支払われたものだった。飯岡が生きていればいずれ彼が決着をつける問題で、大野は飯岡の指示どおりの処理をしたにすぎない。 「担当課長である君が知らんわけはないな」 「…………」 「どうなんだ」 「はい。承知しておりました」 「このカラクリは不正だぞ」 「しかし亡くなった飯岡常務が……」 「待て。君はまさか故人のせいにしようというんじゃあるまいな。そういう指示を仮に飯岡さんがしたとしても、こういうケースについては君の所で決済はできないことになっているんじゃないのか。ましてあの飯岡さんがこういうことをさせると思うか。いいか、よく考えろ。この前大阪で君に会った時……それも飯岡さんの葬式の時だ。万一飯岡さんがこういうたぐいの指示をしているのなら、この私に相談してくれと言ったはずじゃないか。ところが君はあの時、きわめてはっきりと、そういう事実はないと、断言したじゃないか。この契約はあの時点で君が調べなければ判らなかったというような物ではない。知っていたはずだ。勿論《もちろん》、飯岡さんは仕事の進行中に急におなくなりになったのだから、処置があいまいな状態のものがかなりあった。しかしそれらはみな担当部署から最終的に私の所へまわされて、全部処理がついた。君が言うとおりなら、なぜ報告して処理を求めない。飯岡さんの件はすべて私が引継いで処理することになっていたじゃないか」  大野は血の気の引いた顔で答えた。 「しかしこの件は田代常務が……」 「田代さんがどうした」 「田代常務が引継ぐとおっしゃったもので」  叶は高笑いをしてみせた。眸が冷い軽蔑《けいべつ》の色を泛べていた。 「田代さんが営業面に……莫迦言うな。あの人はちゃんとルールを守る人だ。そういうとぼけたことを言うんなら聞かせよう。この件を発見して報せてくれたのは田代さんだよ」 「まさか……」 「田代さんは昔から飯岡さんとは親しかった。亡くなってすぐ、飯岡さんが東京の営業部を使ってカナダのI社との仕事を進めておられたのを思い出して、気にしておられたんだ。君が大阪の葬儀に発《た》ったあと、何気なく調べてみたらこの通りの結果が出た。驚いて報告して来たのを私が受けたのは、あの火葬場で君に会ったあとだ」  叶はそう言って灰皿のヘリで煙草をもみ消し、灰皿の中へ強く投げ入れた。  その時ドアがあいて、大野のうしろで声がした。 「やあ」 「どうぞどうぞ。今はじめたところです」 「私は遠慮しよう」  田代常務の声だった。  則子とのことがまずいタイミングだった。それに飯岡常務は、関西支社でかなり荒っぽい芸当をやっていたらしく、弥縫策《びほうさく》を施すには問題が大きすぎたようだった。問題が大きすぎるので、関係者はみな叶支社長に報告したらしい。ところが縄張《なわば》り違いの東京営業部では、四万五千ドルのルール違反があったにすぎない。要するに田代常務ははじめの内、大阪の穴をみくびりすぎていたのだ。  ところが形勢が変った。 「そういえば田代さんは社内遊泳術の名人だったよ」  大野は則子の部屋でブランデーをなめながら、力なくそう言った。 「どうなるのこれから」  則子は怯《おび》えているようだった。 「判らん。だが最悪のことも考えて置かねばならないだろう」  飯岡はすでに死んでいる。すべてはその死から始ったことなのだ。会社は死者だけに罪を負わせるわけには行かないはずだ。いけにえを必要としている。  則子は立ちあがり、窓際へ行って外を向くと肩をふるわせはじめた。 「私って、本当に男運が悪いのね。好きになる人はみんなダメになっちゃう。あなただけはと思って、こんな立場でも満足していたのに……」  大野は茫然《ぼうぜん》とそのうしろ姿をみつめていた。則子にはまだ教えていないが、妻の喜久子との間も、すでに実家の者たちが介入している状態になっている。以前から素行調査にかけられていたらしく、則子の他にも二、三人、浮気の相手の名がバレていた。 「泣くなよ」  大野は哀願するように言い、則子が買った夫の座である、黒い革張りの安楽椅子から立ち上った。  畜生、これもあの爺《じじ》いのせいだ。……大野はそう思い、俺も自殺するのだろうかと考えてみた。     5  大野は興国電機を馘《くび》になった。勿論退職金はなかった。  田代は社長派にのりかえ、後退した会長派の上に人事異動の大波がかぶさっていた。しかし、すでにそれも縁のないことだった。  そして、翌《あく》る新年早々、大野は妻とも別れた。目黒《めぐろ》の家はそっくり喜久子と三つになる邦子《くにこ》のものになり、大野は少しばかりの金を手に、大森の安アパートに身を置くことになった。失業保険の認定を受けに職安へ行く日は、殊更《ことさら》寒さが骨に沁《し》みた。  知った顔を避けている内に、前かがみの姿勢がくせになり、小さな電機会社への就職にも失敗してからは、生きる意欲が全く失せてしまった。  則子も大野の事件があってから、店に居辛くなったようでどこか別の店へ移ってしまった。こうなっては則子の方が収入もあり、生活力もたくましく、そんな女の部屋へのこのこと出入りを続ける程厚かましい神経の持主ではない大野は、自然則子とも別れてしまっている。  そして春になった。  まだセーターを着た体に、生ぬるい風が妙に人恋しさをかきたてる晩だった。  何もないガランとしたアパートの壁にもたれ、古い週刊誌をめくっていると、静かにノックの音もなく入口のドアがあいた。 「あ……」  大野は思わず立ち上った。あの老人だった。 「すっかりごぶさたしてもうて」  相変らずの能登訛りだった。ドアをしめて入口に腰をおろし、立っている大野をみあげた。「仕事を変えなさったとか聞いたもんですさかいに」  帰れ、帰ってくれ……と怒鳴りかけ、大野は思い直した。これがもし死神なら嫌うことなどないのだ。すんなり死ねれば一番いい。 「その後どうです。誰か山並村へ戻りましたか」 「それがあんたさん、まだ誰も来んのやがな。儂も考え直してなあ。儂のすすめ方が悪かったのやないやろか思うて……それでまあ、やり方を変えてみましたのや。行ってあこに暮すいうても、今どきの衆《し》には金が要りますやろ。それで、行けんのなら金でもいい、山並村に寄附して欲しい言うことにしましたのや。それでもよう断わられるんやが、中には幾らか寄せてくれる衆《し》もおってやさかい、まあなんとか、一人、二人分ぐらいのもんは集ったところやわいね。それであんたさんをまた訪ねてみたんやけど……」  と部屋の中を見まわし、「どやね。とにかく一度行ってみる気にはならんですかいね。それでもどうでもというんなら、またここへ戻って来たらいいやないですか。え……」  老人はそう言ってポケットからごそごそと青い小さな封筒をとり出した。 「なんですか、これは」  受取りながら大野が言う。 「失礼やけど、汽車の切符や。行ってみてくだし。気が変るかも知れんさかい」  老人は立ち上った。「行ってみてくだし。ほんまに気が変るかも知れんさかいな」  言い残すと風のようにドアをあけて出て行ってしまった。それを見送ってから封筒をあけてみると、明日の朝上野を出る、特急はくたかのグリーン車の切符だった。  昔はたしか津幡《つばた》で乗り換える筈《はず》だったが、特急はその駅にとまらず、大野は金沢《かなざわ》で奥能登線に乗り換えて半島に入って行った。  廃村山並村へはバスの便もなく、大野は宇出津《うしつ》の少し手前の駅で降りると、幼かった戦時中の記憶をたよりに山道へ入った。  昔は駅もなく、鉄道もここまでは来ていなかったから、海岸の辺りの風景は一変していたが、まごつきながらも道を探して山あいへ入ると、次第に記憶どおりの風景が現われはじめた。  小川のせせらぎと樹々の風に鳴る音。それに小鳥の声。大野はふと自分が社会の歯車のひとつでなくなっているのに気づいた。  企業内の力関係にはさまれて、結局はむなしい回転をつづけていただけではないかと、そう考えはじめていた。仕事も遊びも、人間本来のものとはかけ離れていたように思う。 「ここで朽ちるも人生か」  人けのない山道で、大野は道ばたでみつけた幼い土筆《つくし》をもてあそびながら、声に出してそうつぶやいた。  登りの道が続き、大野はその途中で立小便をした。子供の時のように、空へ向ってはねあげてみた。  馘首《かくしゆ》、失業……そんなことが、ひどくくだらないゲームであったように思えた。  トラックの跡が残る道から、草深い小径《こみち》に入った。その道が山並村への道だった。ガサガサと枯れ草を鳴らして進んで行った。  やがて目の下に黒い屋根が二十程見えた。道を曲った日和山の向うには、もっとあるはずだった。 「おおい」  大野は子供にかえって叫んだ。谺《こだま》が二度返って来た。 「ここに住んでやる。ここに住んでやるぞ」  大野はそう怒鳴りながら、ゆるい坂道を駆け降りて行った。うしろから、誰かに押されているように、大野の体は弾みながら村へ吸いこまれて行った。  御坊様《こぼさま》と呼ばれていた真言《しんごん》宗の小さな寺が木の密生した丘の上にあり、四郎太《しろた》という古い屋号で呼ばれる家がその南側に建っていた。いつか老人が、住むならその家がいいと言っていたのを思い出し、やって来たのだ。  家の中を覗くと、意外にもすぐ住めるほど整然としていた。土間には農具が並び、庭には雨風にさらされて乾き切った薪の山が、朽ちたわらをかぶって並んでいる。クォー、クォ、クォ……と、どこかで鶏《にわとり》の声がしている。置いて行かれた奴だろう。 「ここがあんたさんの家や」  突然庭のまん中に神谷老人が現われてそう言った。呆気《あつけ》にとられていると、「さあ、遠慮せんとあがらんかいね」  と言った。 「あんたも来てたんですか」 「儂はここのもんやさかいに」  老人は満足そうに笑った。 「どこに住んでるんですか」 「儂はこの先のカンミャのもんにゃわい」 「あ……」  大野は凍ったように立ちすくんだ。  この村へ来て思い出した。この家の下の道のさきに、カンミャと呼ばれる小さな社があった。村の鎮守がそこに祭ってあったのだ。 「おいね。俺《おら》、カンミャのもんにゃ」  カンミャとは、たしか神・宮の訛ったものだと祖父が教えてくれたはずだった。 「畑仕事も山仕事も、東京もんのあんたさんにゃよう知らずやろう。だが心配せんとかんにゃ。俺《おら》がついとっさかいにな。ほいで、金が要る時はカンミャへいらし。ちょっこりやけど仕度しとくさかいに」  老人はそう言うと、大野の目の前ですうっと消え失せた。茫然としてつっ立っている大野の耳の底に、 「そいから、村へ来たら女房も要るやろ。待っとらしね。すぐ呼んで来てたするさかい」  という老人の声が聞えていた。  則子が大野を追って山並村へ入ったのは、その年の秋のことだったという。  いま、夫婦には子が産れ、村人は三人に増えている。 [#改ページ]   生命取立人     セックスと寿命     1  津島《つしま》を丸の内にある日本生命協会へ送り込んだのは、彼の学生時代からの友人である井沢則雄《いざわのりお》だった。 「いいかげんにやくざな商売から足を洗ったらどうだ」  二人が時々落ち合う新橋《しんばし》の小料理屋で、井沢は珍しく津島の盃《さかずき》に徳利を傾けてやりながらそう言った。 「アドマンがやくざか……」  津島はその時少し酔っていた。 「広告屋なんて所詮《しよせん》根なし草だろう」 「ひでえこと言いやがる。十何年も広告で飯食ってるんだ。今更ほかの商売ができるかよ」 「何も広告の仕事をやめろとは言ってない。お前は以前広告代理店を辞《や》めて、やっとこれでフリーになれたと言って喜んでいた。俺《おれ》もその気持は判《わか》らないでもなかった。一本立ちで食って行ければクリエーターとしても立派なもんだ。だが小説家や絵描きとはどこか違うんじゃないか。広告の費用は企業から出て来る。代理店のような形をとらないかぎり、個人が自由に操れる代物《しろもの》じゃない。フリーと言ったって、結局下請けみたいなもんだろう」 「宮仕えはごめんだ。安月給で縛られて、きりもなく才能を吸いあげられちまう」  井沢はひどく醒《さ》めた顔で、盃をほす津島を眺《なが》めていた。 「スポンサーになってみろよ。予算をにぎって思い通りのプランをたてるのも悪くないと思うがな」  その夜に限って、井沢がなぜそんなことを言い出したのか津島には見当もつかなかった。井沢は総理府の大臣官房とかに籍を置く、コチコチの役人だった。彼が津島に会うのは、学生時代をそのまま延長したような広告《アド》マンの気楽さに接したいからだったようである。少くとも津島はそう理解し、会うたびに役人臭さが強くなって行く旧友に、自由な空気を腹いっぱい吸わせてやるつもりで、必要以上に荒っぽく、渋谷《しぶや》、新宿《しんじゆく》、池袋《いけぶくろ》と、夜の巷《ちまた》を引きまわしていた。スポンサーへの接待や仲間のつき合いで、津島は夜の遊び場の知識にはこと欠かなかった。  二人はそういうつき合いで、ただなんとなく年に三、四度|呑《の》みまわり、仕事とかお互いの身の上とかについて語り合うことは、ついぞなかった。  が、井沢は案外本気でいるらしかった。いつものように午前二時ごろまで呑みまわって、そのまま別れ、代々木《よよぎ》のアパートへ戻り、自由業の気楽さでお昼すぎまで寝こんでいたその翌日の三時ごろ、井沢が改まった言葉づかいで電話をかけて来た。 「君の就職のことで話がしたい」  そう言った。 「なんだ、まだゆうべの続きか」 「真面目《まじめ》な話だ。ゆうべ君はまかせてもいいと言ったぞ」 「そう言ったか。それなら酒のせいだ」 「なんでもいいから、とに角会ってくれ。実はもう上司にも話を通してある」  津島はいつになく強引な井沢の誘いに、仕方なく出掛けることにした。  それが日本生命協会という得体の知れぬ秘密組織と彼の出会いだった。     2 「人口問題対策本部か。なんだこれは」  総理府の小さな応接室へ通された津島は、井沢の名刺を受取ってそう言った。 「インドじゃあるまいし、今更産児制限のPRでもなかろう」  津島は井沢の現在の身分について、その時はじめて知らされた。それまでは、総理府の内線の電話番号を教えられているだけだった。役所で見ると、井沢は津島が思っているよりずっと重要な地位についているように感じられた。若手代議士にそんな顔がある。髪をきちんと七・三に分け、黒ぶちの眼鏡をかけ、ダークスーツを着ていた。広く血色のいい額、何か人の知らない情報を握っている、優越感を含んだ瞳《ひとみ》の色。ノーネクタイの津島はなんとなく気押される思いだった。 「表面的には非公式のものだが、実際には総理大臣官房直属の外郭機関だ」 「役人は言うことが大げさだ。まさか秘密情報部なんてものじゃないだろうな」  津島は井沢からうける威圧感を、冗談で受け流そうとした。 「似たようなところもある」  井沢はニコリともせずに答えた。「君は以前、この東京ほどの大都会なら、秘密結社のような組織が、一般人のうかがい知れぬ別世界を構築していても、少しも不思議ではないと言ったな。覚えているか」 「ああ覚えてるとも。もっともそいつは俺がいくらかロマンチストだからだろう。でも、今でもそう思う。スパイ組織とか犯罪者の組合とか、そんなものは当然あるはずだ。なければおかしい。俺はもっと凄《すご》いのがありはしないかとさえ思う。大銀行の頭取たちが集って自由に話合ったとしたら、そこではどんなことが話題になっているか……国鉄の赤字も次の首相も、ひょっとしたらみんなそういうところできめられちまうんじゃないかと思うよ。いや、銀行の頭取たちというのはたとえばのことだ。何か得体の知れないデカいものが集って、特殊な社会を作ってる。高級官僚もいるだろうし政治家もいるだろう。そういう大きな力を持った小さな社会が、ひょいひょいと、茶のみばなしの間に世の中の進路を好きな方向へ曲げて行く……。果して俺がロマンチストだからそういう夢想をするのか、それともそんなことはあり得ないと思い込んでる奴《やつ》のほうがロマンチストなのか」  津島はそう言い、少し照れたように煙草《たばこ》をくわえた。 「今度の件は君が以前そういうことを僕に言って聞かせたことから始ったのだ。それまで君は僕にとってただの親しい友人にすぎなかった。だが君のそういう発言がきっかけになって、日本生命協会の広報課長には、君が最適任じゃないかと思いはじめたんだ」 「随分前のことだぜ、今の話をしたのは」 「そうだ。八か月ほど前だ。君には悪かったが、あれ以来君の身辺をずっと調査させていたんだ」  津島は唖然《あぜん》として井沢を見た。井沢はテーブルの上のファイルをとりあげてニヤリとした。役人の顔が消え、学生時代の表情に戻っていた。 「乱暴なくらしをしてるもんだ。銀行預金が八万足らずとはな……」 「馬鹿野郎《ばかやろう》。宵《よい》ごしの銭なんぞ持つか」  津島はそう言って笑いとばしたが、内心、事の重大さを覚《さと》った。総理大臣官房がそこまで自分を綿密に調べあげているというのは、只事《ただごと》ではないと思った。 「決めていいだろう。僕にまかせてくれ」  井沢も笑いながら言った。が、眼だけは役人に戻っている。「君も三十七だ。独身で係累《けいるい》なしというのはこっちの希望にはピッタリしてる。だが歳《とし》だぞ、もう。しっかりした組織に身を置いて立場をかためたほうがいい」 「独身、係累なし……理由はそれだけか」 「それも理由のひとつだが、もっと重要なのがある。君は広告マンとして今迄《いままで》随分多くの新商品発売キャンペーンを経験している。そのキャリアがひとつ。もうひとつは口が堅いことだ。同業二社の仕事を平行してやっても、君は一度も情報の件でトラブルを起していない。それから、生命保険と医療器機関係、電子器機関係の分野を経験しているのも強味だ。内部では……と言っても僕ともう一人、上の人間の二人だけだが、君の採用はほとんど決定している。あとは君さえウンと言えばいい」 「いったい日本生命協会というのは何をする所だ。いや、それよりいくら出す。条件を聞こう」  すると井沢は黙ってポケットから折り畳んだ紙片をとりだして渡した。横長のそれは、給与の明細書であった。津島は口笛を吹いた。 「相当な激職らしい。大した金額だ」 「さあ、激職かどうか。案外仕事がなくて困るかも知れん。とにかく秘密保持を要する特殊な仕事だ」 「それで仕事の内容は……」 「それを知ったら断われんぞ」 「聞こう。金額が気に入った」 「日本人の寿命の管理だ。人間の寿命に関しては現在世界的に大きな秘密がある。いずれ国民にそれを知らせねばならないが、一度にはショックが強すぎて出来ない。どこからか水が洩《も》れるように、徐々に秘密を公にして行くのが君の仕事だ。公にして行くプログラムは国際的な会議で決まる。しかしそのやり方は当分の間、君の自由にしていい」  津島は引受ける決心をした。秘密めいた仕事に好奇心が強く動いたし、井沢の言うとおり、そろそろ根なし草の生活に見切りをつける潮時《しおどき》だとも思ったからである。     3 「フランツ・リングという医学者の名前を聞いたことがあるか」 「フランツ・リング……ドイツ人か」  津島は首を傾げて言った。 「いや、スエーデン人だ。リング博士が死んでから、今年で丁度《ちようど》百年目だ」 「知らない。聞いた憶《おぼ》えがない名だ」 「人間の寿命に関する研究の先駆者だ」  井沢は手短に説明した。それは津島にとって驚くべき内容だった。  リング博士は人体各部の正常な活動を、計数的に把握《はあく》しようとした最初の人物であった。健康とは何か……どういう状態を指すのか。それは病気とは何かという問いと表裏一体をなした問題だった。リング博士は生涯《しようがい》を人体各部の活動量の測定にささげたが、その過程で、もしすべての部分の活動量の総和が正確に計算できれば、それはその人間の現時点における残存年齢を示すものであるという結論に達した。フランツ・リングの思想は北欧の医学者の間に広く継承された。  やがて近代科学の著しい展開期を迎え、計測器機が長足の進歩をとげた。人体の活動量研究は急速に発展し、残存年齢の測定精度が高まって行った。それは医療効果を数量的に測定することでもあり、近代医学に大きく貢献するものだった。  疾病《しつぺい》によって残存年齢が低下し、医療によってその数値が復元すれば、その医療活動は正しかったということになる。体育も娯楽も、この活動量測定によって正しいあり方が究《きわ》められるはずであった。  ところが、測定技術が進むに従ってモラルの問題が発生して来た。人間の寿命を計測することは、結局死期を知らせることと同じである。現代医学では大幅に寿命を引きのばすことはまだ不可能であった。国際学術連合会議がこの問題をとりあげ、すべての研究を一般大衆から秘匿《ひとく》することに決定した。  日本生命協会は、この秘匿された研究を推進する為《ため》の国際組織の一部であった。しかし、これに関連してもうひとつの秘密が発生した。  それは異常長寿者の問題であった。  活動量測定技術が進歩した結果、世界各地に意外な程多数の異常長寿者が隠れ住んでいることが判って来たのだ。一種の半不死人である。彼らは百数十年から数百年の残存年齢を所有し、一般人との間に、能力的な大きな格差を生じていた。  異常長寿者とは決して不死ではない。通常の成人が五十ないし六十の残存年齢値を示すのに対し、それが百から数百の値を示すのである。三十代に見えて、実は八十、九十の高齢であったり、稀《まれ》には数百歳と推定されるのに、まだ青春の体力を有している者すらいる。  こうした異常長寿者は、宿命的に一定の社会に長居することを許されない。異様な若さに怪物視されるからである。自然転々と生活半径を変え、一定期間ずつ別人格となって長い人生を送ることになる。世に隠れ棲《す》み、長寿で身につけた卓抜した生活技術で富を得、次第にその防禦《ぼうぎよ》を堅固にして行くのだ。  こうした人物が、極端な権力欲にとりつかれた時、人類はしばしば危機に陥る。最も近い例では、アドルフ・ヒットラーがそうであったという。戦後の研究によれば、彼の痕跡《こんせき》は十六世紀のマクシミリアン二世当時にまで遡《さかのぼ》ることができるという。  第二次大戦中、すでにヒットラーの異常長寿問題は、各国上層部の間に知られており、戦後、異常長寿者に関する対策が国際的な急務となった。この問題に関しては、東西両陣営とも人類の未来に関する最大の危険とされ、冷戦中も異常長寿者対策に限り、協力態勢がとられていた。  アポロ技術が測定器を更に進歩させた。アメリカ生命協会はいち早くホワイト・ハウスに働きかけ、異常長寿者取締法という秘密法を制定した。異常長寿者の摘発が世界的規模で進み、彼らは通常人の管理下に置かれた。日本でも昭和三十七年、遅ればせながら、異常長寿者保護法及び謝礼量等規制法の二法案が、秘密法として承認された。  世界が異常長寿者を恐れるのは、単にヒットラーのような例によるものだけではなく、その背後に謝礼量問題という人類発生以来の宿命的な問題がかくされていたからであった。  謝礼量……グラチュイティーについては、日本は最も研究の進んだ国である。     4 「なんだい、その謝礼量というのは」  津島は燃えあがる好奇心に我を忘れていた。 「謝礼量の研究では、京大の森弘志博士が世界的な権威だ。謝礼量、つまりグラチュイティーというのは、人間が自分の残存年齢を他人に譲渡する量を言うんだ」 「そんなことができるのか」  すると井沢は奇妙な微笑を浮べた。それは照れたような、ひどく猥雑《わいざつ》な表情だった。 「性交には快感が伴う」 「当り前だ。それがなかったら、あんなこと馬鹿馬鹿しくってやれるか」 「真面目に聞けよ」  それは総理府といういかめしい役所で聞くには、少し場違いな話題のようだった。 「男性と女性が正常な性行為を持つ場合に限るんだ……女性性器に男性性器が正しく挿入《そうにゆう》されるということだぞ」  津島はぽかんと口をあけてそんなことを言いだした井沢の顔をみつめていた。  それは最初、性行為によって人間の残存年齢がどれ程変化するかという実験から始ったらしい。消耗するから減るのか、又《また》は変化しないのか……。ところが実験結果は意外なことを明るみにさらけ出した。  残存年齢の変化は、性感と関係があったのである。男女一組の正常な性行為の場合、より多く快感を得た側が、少かったほうより残存年齢を多く減じたのである。実験が重ねられ、人類の性に対する秘密が解きあかされて行った。  性交した一組の男女の、残存年齢値の総和は変らないのである。ただ、快感を多く与えた側の値がわずかに増加し、与えられた側の値がわずかに下った。  交接は命のやりとりだったのである。  これを発見した時、世界中の研究者は驚倒した。快感は男女どちらの側にもあり、ただその大小の差があるだけだ。しかしその僅《わず》かな差でも、与えた側の残存年齢値に附加されてしまうということは、一方が全く快感を得ず、他方を極端な快美感に沈め得た場合、かなりまとまった数値になり得るということではないか。それが長期に亙《わた》って続けば、性交に依《よ》って長寿を取得することも可能である。  疑惑はいっせいに異常長寿者たちに向けられた。彼らは決して不死ではない。しかし仮に当初二百歳の残存年齢に恵まれていたとして、その人物が世にふるに従って性技にたけ、通常人の異性に圧倒的な快感を与えることができたとしたらどうだろう。その人物が徐々に残存年齢を蓄積し、自己が消費して行く値を上まわることすら可能になったとしたら……。永久に二百歳の残存年齢を保持し、老化はそこで止ってしまう。……ひんぱんな性交を続ける限りだが。  異常長寿者たちがなぜ言い合せたように世にかくれ棲んでいたか、その理由がさらけ出された。彼らはたしかに測定値によれば、百年後、二百年後には死を約束された人物たちである。しかし彼らはその数値の減少を停止させる方法を知っていたのだ。彼らは性交によって人類に寄生する怪物だった。通常人に性の快楽を与え、謝礼として通常人の残存年齢を受取り、異常な長寿を保ちながらその隔絶した処生術で富み栄えていたのである。 「その残存年齢の移動値が謝礼量《グラチユイテイー》さ」  井沢は憮然《ぶぜん》とした表情で言った。 「異常長寿ってのは生れつきなのかい。もしその発生原因が判れば、みんな手術かなんかして長生きになっちまえばいい。……あ、待てよ。お前、さっき徐々にこの秘密を大衆に知らせて行く方針だと言ったな。さてはその方法が判ったんじゃないのか」  井沢は首を横に振った。 「なぜ異常な長寿を獲得するのか、そいつはまだ判っていない。これは生れつきのものじゃなくて、特別な衝撃を受けることによるらしいんだ。人体に加えられる衝撃はふつう、怪我《けが》とか死につながる。しかし、非常に稀《まれ》にだが、それがプラス方向に働くこともあるらしい。電撃療法とか、鍼灸《しんきゆう》とかというのは、そういう例があり得るというかすかな証拠じゃないだろうか」 「じゃあ、なぜ知らせる方向を打ち出したんだい」 「異常長寿者の発見に手を焼いたからさ。連中は歳《とし》の功でひどく賢い。うまく隠れていて発見は容易なことじゃない。その間にも奴らはすばらしい性技で何も知らない人間たちから、少しずつ命をとりあげているんだ」 「徐々に知らせるというのは、ひょっとするともうだいぶ以前からなんじゃないかい」 「そうだ。どうして判る」  津島はニヤリとした。 「大したことじゃない。ただポルノばやりだからそう思ったのさ」     セックス訓練所     1  日本生命協会、総務部広報課長。  それが津島の新しい身分だった。協会は丸の内のどまん中にあり、外見は何の変哲もなかった。協会内の組織も、一般の団体とそうとりたてて変ったところは見当らない。ただ、実際には研究部が厖大《ぼうだい》な予算を握って大きな権限を持っていたし、調査部がそれに次ぐ規模で、特に調査部保安課というセクションが、この秘密組織の凄味《すごみ》をのぞかせていた。  調査部は対異常長寿者専門の機関である。異常長寿者の発見、登録、保護に当っている。保護と言っても、それは殆《ほと》んど監視と同じであった。登録された異常長寿者は、別に犯罪者というわけではないので、一般人の社会にそのまま生活することを許されている。恋愛関係も、特定の個人から大量の謝礼量を奪わぬ限り、自然のこととして許されている。  しかし定期検診と称して、一定期間ごとに生命協会の残存年齢測定に応じなければならない。もし前回の測定より数値があがっていれば、それは不正行為があったと見なされるのである。秘密法である謝礼量等規制法がその措置の法的裏付けをしている。  調査部保安課は謝礼量に関する不正行為を未然に防止し、取締るばかりでなく、セックスGメンとでも言うべき、特殊技能者の一群をかかえていた。  協会内での正式名称は生命取立人であった。  生命取立人は性的資質に恵まれた青年男女を厳選し、これに高度な技術を習得させて、不当に残存年齢値を上昇させた異常長寿者に立ち向わせるのである。  彼らの使命は異常長寿者の間を定期的に巡回し、性交による快美感の深淵《しんえん》へ突き落すことにあった。無防備な通常人からとりあげた残存年齢を奪い返し、それでなくても一般人との間に不当な格差を生じる異常長寿者の寿命を、それ以上に延引させることを防止するのだ。それによって、残存年齢二百歳の人物は、確実に二百年後に自然死をとげることになる。  津島は広報課長に就任して、生命協会の業務についてさまざまな講習をへたあと、箱根杉《はこねすぎ》の沢《さわ》にある生命協会の訓練所へ見学に出された。  それは勿論《もちろん》生命取立人の訓練所であった。  丁度訓練所長の矢代《やしろ》が丸の内の協会本部へやって来ていて、津島はその帰りの車に便乗して箱根へ向うことになった。 「そうだ。失礼かも知れんが、これを服《の》んで置いて下さい。最初は四錠、明日の朝三錠でいいでしょう」  矢代は妙にさっぱりした顔の人物だった。面長《おもなが》で見ようによっては美男子とも言える。年齢は四十近いだろうか。だが津島には、顔の造作が何かひとつ足りないような、変に馴染《なじ》みにくい顔に見えた。 「何ですか、これは」  津島は小さな瓶《びん》のキャップを外し、掌の上で緑色の錠剤を数えながら訊《たず》ねた。 「大した薬じゃありません。体臭や口臭を消す薬です。新しい訓練生の中には、匂《にお》いを嫌《いや》がる者が多いので……」  津島は素直に錠剤を口にほうりこみ、ごくりとのみ下した。二人は並んでエレベーターにのり、一階のホールへ出た。 「着くと夜になっていますな」  津島は正面玄関に待っている車に向いながら、腕時計を見てそう言った。 「淋《さび》しい所ですよ。杉の沢をご存知ですか」 「だいたいの位置は判ります。例の払いさげ問題で揉《も》めた天下台《てんかだい》別荘地の近くの谷でしょう。あそこのパンフレットを作ったことがあるんです」 「そうでしたな。あなたは以前広告をやっていらしたんですな」 「ええ」  二人は車に乗り、ドアをしめた。時間は四時を少し過ぎており、となりの損保会社のビルから、初夏の派手な粧《よそお》いの女子社員たちが、ぞろぞろと退社して行くところだった。  矢代は何か書類をとり出して熱心にそのページを繰りはじめた。走り出した車の中で、津島はぼんやりと窓の外を眺めていた。     2  翌朝目覚めるとすぐ、津島は無意識に枕《まくら》もとへ手を伸して煙草を探し、ここが箱根杉の沢にある訓練所の一室であることを思い出した。当てがわれたのは小さな個室で、シングルベッドとやや大きめのロッカー、それに白いタイルの洗面台がついていた。  どこからか、元気のいい男女の掛声が聞える。腕時計を見ると七時少し前だった。ベッドに腰かけてズボンをはき、上半身裸のまま窓のカーテンを引きあけると、目の下に広い運動場が見えた。白いトレーニングパンツに白い半袖《はんそで》シャツを着た二十人程の若い男女が、ふたつのグループにわかれて体操をしていた。ひと組は腕立て伏せをしており、もう一方は一列に並んでうさぎとびをしていた。威勢のいい掛声は、うさぎとびの組のものだった。  津島は思わず唇《くちびる》をゆがめた。特殊技能を授ける訓練所だと聞いていたが、精々こんなものかと失望したようだった。世の中にそう変ったことがあるわけはない。現実とはいつもこんなものだ……そう思ったようである。  シャツを着て廊下へ出ると、消毒液の匂いがする看護婦風の女が、ジロジロと津島の体を見まわしながら通りすぎて行った。  どこへ行っていいのか判らず、しばらく突っ立っていると、廊下の向こうに矢代の姿が見えた。  矢代は足ばやに近寄って来て、津島に白い布を渡した。受取って見ると、それは体操をしていた連中と同じ運動着だった。ま新しい白いズックの靴《くつ》まで添えてあった。 「これを着て下さい。訓練生たちはユニフォーム以外の服装をした人に心理的な抵抗を感じるのです」  矢代に言われ、津島はドアの中へ戻って白いユニフォームに着がえて出た。 「一階の食堂に朝食が用意してあります。セルフサービスですが……」 「運動場で腕立て伏せとうさぎとびをやっていますよ」  津島は皮肉のつもりで言った。 「ああ、日課になっているんです」  矢代はしゃらっとして答えた。「あれが終ると講義が始ります。そのあとは催眠法の実習で、午後から本格的な実地訓練に入ります。はじめての方には少し刺戟《しげき》が強すぎるかも知れませんがね」  矢代はそんなことを言いながら食堂へ案内した。     3  天井が高く、四方を白い壁にかこまれた撮影スタジオのような広い部屋の正面に、電算機が置いてあった。以前その方面の仕事を手がけていたので、津島にはそれがIBMシステム/360であることが判った。だがその両脇《りようわき》にずらりと並んだ、さまざまな装置が何であるかは見当もつかなかった。ただ、どれも非常に高価なものであるらしいことだけは判った。 「まずあなたの残存年齢値を測定してみましょう。衣服を脱いで下さい」  矢代がそう言い、部屋の中にいた三人の所員が、それぞれの部署について計器の点検をはじめた。津島は部屋の隅《すみ》でシャツを脱ぎ、トレーニングパンツをとって椅子《いす》の上に置いた。ふり返ると矢代が厳しい表情で首を横に振って見せた。 「全部脱ぐのです」  津島は仕方なく素ッ裸になった。  部屋の中央に大きな黒い円筒形の装置が横たわっていて、その上半分がゆっくりと釣《つ》りあげられて行った。 「この中へ横になって下さい」  矢代が命じた。円筒の中はひと形にくぼんだマットがつめてあり、至る所に金属の小さい突起が光っていた。津島は観念してその中へ体を横たえた。所員が二人寄って来て、乾いた指で突起がうまく肌《はだ》に接触するように調節した。やがて準備が整ったと見え、円筒の上半分が静かに降りて来た。上半分は音もなくはまり、津島は生きながら納棺《のうかん》されたような気分を味わっていた。顔にも腹にも脚にも、じわじわと上のマットがしめつけるように迫ってくる。やはり沢山の金属突起がついていて、いたる所の肌にその鈍い圧力があった。  いよいよ始るぞ……津島がそう思った時は、肌にかかる圧力はすでに退きはじめていた。上のマットはすぐに体から離れ、やがて暗黒の棺の中に光がさしはじめた。円筒の蓋《ふた》が浮きあがり、津島は解放された。 「もう結構です」  そう言われて、津島は急に全裸を恥じ、岩の上を素足で走るように、ひょこひょこと爪先《つまさき》だった恰好《かつこう》で衣服のある椅子へ走った。  コンピューターの作動する音が聞え、すぐに停《とま》った。 「ごらんなさい」  矢代は悪戯《いたずら》っぽくニヤニヤしながら壁の青い電光標示板を示した。11499、という数字が出ていた。 「なんですか、あれは」 「あなたの残りの寿命ですよ」 「ピンと来ませんね」 「それでは換算しましょうか」  矢代はそう言って無造作にコントロールパネルのどこかをいじった。さっと数字が変った。3105260504205という長い数字が出た。 「三十一年五か月二十六日五時間四十二分五秒……」 「はあ……三十一年五か月二十六日」 「現状の状態ですと、あなたはまだ三十一年半ほど生きられます」  これが科学の行き着く先か。……津島は一瞬そんな感慨にとらわれた。     4  その部屋の壁の一部が横に動いて、壁の向うの体育館のような部屋が視界に入ったとき、津島は余りのことに一瞬眼をとじた。  朝窓の外で体操をしていた二十人ばかりの男女が、思い思いにからみ合って痴態のかぎりを尽《つく》していたからである。その性愛群像の中を、教師らしい男女が二人、白いユニフォーム姿で歩きまわり、時々立ちどまって交渉中の男女に声をかけていた。訓練生たちはみな全裸で津島にはただ妖《あや》しげで没個性な群像に見えたが、男女の教師は必要に応じて男女の組合せを変え、初心者と上級者、初心者と初心者というように、たくみに適切なコーチ法をとっているらしかった。マジック・ミラーらしいその覗《のぞ》き窓のすぐ傍《そば》で、一人の女が急に体をそり返らせ、何かにすがるように両手を上に突きあげて顔を歪《ゆが》めた。声は聞えないが、どうやら激しい嬉声をあげたらしかった。上の男は慌てて体を外し、しまったというように頭に手をやって近寄って来るコーチを見た。上級生が下級生をつい性の深淵につき落してしまったといった様子だった。立ち上った男の下腹部に、光線のかげんで一瞬銀色の輝きが宿ったようである。 「あなたは広報課長だから、一度活動量移動の実際を体験なさるといいでしょう。どの生徒でもいいですよ。お相手させますから」  矢代は平然と言った。津島は愕《おどろ》いてその顔をまじまじとみつめた。造作が一か所どこか欠けているような、妙にさっぱりとした顔だちが、通常人にとってひどく不道徳なそういう言い方に、ぴたりと似合っていた。 「遠慮しときますよ」  津島が言うと、矢代は憤ったように、 「体験なさらなければいけません。その為《ため》にここへいらしたんですから」  と眉《まゆ》を寄せて言った。  どうしようもない羞恥《しゆうち》心をねじ伏せて、温泉マークじみた派手なベッドの置いてある別室へ入った津島は、矢代が本当に最初から体験させる気で自分を連れて来たことを知った。相手は二年間の特訓を終え、もうすぐ取立人として第一線に配属される最上級生だと言うことであった。年齢は二十四、五歳と言ったところか。均整のとれた肢体《したい》をしているが、セックスGメンという妖しい職業にはふさわしくない、気弱で素直そうな感じの平凡な娘だった。  二人とも素肌の要所要所に計測用の端子をとりつけられ、その端子から伸びる細いコードが、津島をまるで操り人形にでもなったような感じにさせた。  女は二人きりになると、 「これが訓練所での最後のセックスになるんだわ」  とつぶやくように言った。その言い方には沁々《しみじみ》とした情感が籠《こも》っていた。  彼女はぎこちなくベッドに坐《すわ》っている津島ににじり寄り、二か所ほど接点をつけ直した。津島はそれだけで、性の昂《たかぶ》りというよりは怖れに似た感覚に陥り、心臓を我になく高鳴らせた。女はさり気なく両手を津島のこめかみに当て、次にまぶたに触れた。……それからさきどうなったのか、津島は夢うつつで呻《うめ》きつづけた。彼女がどういう手順で自分をおしつつんだか、それさえ記憶していなかった。  実験が終った時、彼は二時間五分も寿命が縮んだことを知らされた。矢代はそれを訓練所の新記録だと言って笑った。  女は入所してまだ二か月の最下級生だった。超ベテランだという暗示と、端子を直すふりをして彼女が行なったごく初歩的な催眠法が、津島を甘美な奈落へつき落したのだった。  津島は二時間五分の謝礼にしては、その快楽がひどく安いものであったような気分になっていた。     セックスと政治     1  仰木谷由理子《おおぎやゆりこ》という名を津島が異常長寿者登録名簿で発見したのは、それから数か月のちのことであった。彼女は五年ほど前に発見された異常長寿者で、関東地方では今のところ最も残存年齢値の高い人物であった。調査部の記録によると、長寿獲得時は明和《めいわ》五年。つまり西暦一七六八年となっている。勿論本人の申立てによるほか確認のしようがないが、原因は情死直後の雷撃によるらしい。その衝撃で蘇生《そせい》し、以来異常長寿者として生きつづけているのだ。情死の相手は二百石どりの旗本で御腰物方《おこしものがた》、川口左内《かわぐちさない》の三男源十郎《げんじゆうろう》ということであった。彼女は当時十八歳であったらしい。  遠い江戸時代の悲恋物語はさて置いて、津島は名簿に貼《は》られた顔写真に見覚えがあった。広告《アド》マン時代津島がよくスポンサーを連れて行った、六本木《ろつぽんぎ》のクラブ扇屋《おうぎや》のマダムに間違いなかった。 「道理で色っぽいと思った」  調査部保安課の一隅《いちぐう》を借りて名簿をひろげていた津島がそう言うと、保安課長の坂元《さかもと》が耳敏《みみざと》くそれを聞きつけ、 「知ってるのがいたんですか」  と寄って来た。 「この女ですよ」  津島は顔写真を指さした。 「まさか、やられたんじゃないでしょうな」  坂元はからかい半分に言った。 「どうも大変な美人でね。ああいうのには弱いんですよ。でも妖艶《ようえん》すぎて少しこわいような……まあ我々クラスには高嶺《たかね》の花といった感じでしたね」 「この女は案外堅いんですよ、まだ二百六、七十年は残してるはずで、我々も特に厳重に監視をしている中の一人なんですが、すっかり観念したのか、派手になにをする気配が見えないんです。何しろ二百年も生きているんだから、その気になれば取立人だって危いくらいでしょう。……おまけにとび切りの美人と来てるし、見たところは中年マダムの色気がこぼれるようなんですからね」 「そりゃおかしいですね。全然その……浮気をしないってわけじゃないでしょう」 「まあ時々はやるようですが、法に触れる程深入りはしないんです」  坂元にそう言われ、津島は眉《まゆ》をひそめた。「あれは何年前になるかな、僕の知ってるのが一人、この女にのぼせあがってしまいましてね。勤めは辞めちまうし、家へは帰らないし、それはひどい狂いようでしたよ。運の悪いことに、そいつを六本木のクラブ扇屋へ最初に連れて行ったのがこの僕だったんですよ。真面目一方の銀行マンで、ろくな遊び方を知らない奴だったもんですから、こっちもすっかり責任感じちゃって……」  すると坂元は急にむずかしい表情になり、足早に保安課の部屋を出て行ったかと思うとすぐに部厚いファイルを持って帰って来た。 「それは何年ごろの事です」 「そうですな……五年、いや六年前かな」 「六本木のクラブは相変らずやっているようですが、六年前じゃ記録にはないですな。多分それじゃ登録される以前のことなんでしょう。どんな男でしたか」 「R銀行の京橋《きようばし》支店にいたんですよ。若いが将来を買われてたようで、本店勤務をしたあと、お膝《ひざ》もとの最重要支店である京橋支店にまわされたんです。僕はその当時R銀行の仕事をまかされていまして、京橋支店の開店も十周年記念かなんかの手伝いをさせられたわけです。その時先方で支店の宣伝関係を担当していたのがその男なんです。仲々の堅物で、こっちの言う通りにならないもんだから、洗脳しちまえってわけで夜の町へ連れ出したんです。ところがいつの間にか僕が教えた六本木の扇屋へ入りびたりになってたんですよ。別に使い込みをやったわけではないから、まあその分だけ僕としても助かったんですが、意見したってまるで駄目《だめ》なんですよ。ひょっとしたら、あいつは童貞を異常長寿者に捧《ささ》げちまったんじゃないでしょうかね。とにかくしまいにはあのマダムの家へ入りこんで同棲《どうせい》みたいなことになってしまって……そのあとはどうなったんですか……僕もそこまで責任は負い切れませんでしたからね」 「そういうケースは多いんですよ。もう六年もたってるわけですな。無事に喧嘩《けんか》別れかなんかしていてくれればいいんですがね」  坂元は本気でそう案じているように見えた。     2  総理府の井沢則雄から津島のところへ呼出しがかかったのは、それから二日後だった。  井沢はすでに津島の友人で就職の世話をしてくれた相手というばかりではなく、津島の上司に当る人間になっていた。  日本生命協会は結局総理府大臣官房の人口問題対策本部の全面的な支配を受けていたからである。  指定された場所は赤坂《あかさか》の料亭《りようてい》だった。  広告《アド》マン時代に散々遊んだ津島も、そういった場所だけは遂《つい》に足を踏み入れたことがなく、ひどく閉鎖的な雰囲気《ふんいき》をかもし出すその料亭の玄関で、おずおずと井沢の名を告げた。 「どうぞ。お待ちかねです」  年輩の女に案内され、長い廊下を何度か曲って奥まった一室の障子をあけると、井沢のほかにもう一人、意外な人物が黒塗りの大きな座卓を前にあぐらをかいていた。  保守党の中津川《なかつがわ》代議士だった。大物中の大物で、次期総裁を狙《ねら》う賀山《かやま》派の実力者である。 「これは……」  津島は驚いてそう言ったきり、畳に両手をついて我ながら卑屈な頭のさげ方をした。 「先生、これが津島です」  井沢は津島を勿体《もつたい》じみた言い方で中津川に紹介した。 「そうか。まあどうか気楽にやって……井沢君、とに角盃を」  何度も大臣をやった中津川の声は、テレビタレントなみに馴染み深い声であった。 「井沢、どういうわけなんだ、これは」  津島はかしこまって盃をとり、井沢から酒を受けながら訊ねた。 「中津川先生は人口問題対策本部の本部長でもあられるんだ」 「…………」 「君を協会に送り込む時も、先生にご相談申しあげたようなわけで、先生は君なら適任だとおっしゃってくださった」  井沢は恩着せがましい言い方をした。津島は仕方なく、当時の礼の意味で黙って中津川に頭をさげた。 「ところが君を送りこんだのはこっちの計算ちがいだった」  井沢は急にくだけた言葉づかいになって、必要以上に親しげな様子でまた徳利をつきつけた。 「別に君に落度があったわけじゃないから心配するな。世の中には妙な偶然というのがあって、君はそれにまきこまれたのさ。本部長、そうでしょう」  井沢は中津川に対する呼び方を変え、気やすい態度になっている。  中津川は意味不明の含み笑いをし、 「お互いに不都合なことは何もない。良い仲間が一人増えただけなのだからな」  と言って卓の上の皿に箸《はし》をつけた。 「君が駒井啓介《こまいけいすけ》と仰木谷由理子の結びの神だったとはなあ」  井沢はサラリと言った。 「駒井啓介……ああ、あのR銀行の京橋支店にいた、扇屋のマダムの……」 「そうそう、それだよ。全く偶然ってのは恐ろしいよ。君はまだ何も知らんだろうが、駒井啓介は五年前に正規の手続きで協会に入り、訓練所で二年間の教育を受けて、今ではトップクラスの生命取立人になっているんだ」 「あの駒井が……」  津島は二の句がつげなかった。     3  仰木谷由理子という異常長寿者は、やはり一筋縄《ひとすじなわ》では行かない曲者《くせもの》だった。彼女は自由奔放に通常人たちを誘惑し、大量のグラチュイティーを得て永遠の若さを保っていた。人並み外れた美貌《びぼう》の持主だけに、若さに対する執着も大きかったに違いない。  駒井啓介の性的資質が、稀《まれ》に見るものだとひと目で覚った扇屋のマダムは、何の苦もなく駒井をたらし込んで、思うさまその若さを吸いあげていた。駒井のセックスは相当なものらしく、まるまる一年同棲してマダムを飽かせなかった。  が、マダムは長寿者特有のずば抜けた敏《するど》さで、社会がひそかに自分達を規制する方向に動いているのを知った。  どういう手段を講じたのか詳《つまび》らかではないが、彼女は日本生命協会の存在を探知し、ふたつの秘密法の内容を知った。そして自分にも摘発の手が迫っていることを察すると、駒井にすべてを打明けたのであった。  駒井は彼女に身も心も捧げ尽した状態になっていて、その話を聞くと即座に彼女の若さを守るために働くことを誓ったという。彼女はごく自然に駒井を協会関係者の目にとまるよう接近させ、まんまとその内部へ送りこんでしまった。駒井はセックスGメン、つまり生命取立人として採用され、二年間の訓練を終了したのち、まず関西地区を担当させられ、やがて配置転換で待望の東京地区の担当者になったのである。  定期検診と称する測定時期に近づくと駒井は彼女に快楽を与えつづけて正常値に低下させ、それ以外の期間は他の異常長寿者を巡回して奪ったグラチュイティーを、惜しげもなく彼女に与え、若さを回復させていた。  性技の達人が二人、この世のものとも思われぬ快美な悦楽を、与えたり与えられたり、自由自在にコントロールしてもつれ合っていたのである。 「当然駒井は背任罪に問われるし、仰木谷由理子は不正な手段を用いた為に、規制法、保護法の秘密二法に抵触して、かなり大量の減値処分を受けるはずだ」 「それが判っているのに、なぜ放置しているんだ」  津島にはそれが解《げ》せなかった。中津川は急に立ちあがり、次の約束があるからと言ったあと、テーブルをまわって津島の肩を叩《たた》いた。 「悪いようにはならんさ。これからは賀山派の時代だからな」  そう言うと高笑いを残して出て行った。井沢は体をゆすって楽な姿勢に坐り直すと、 「ざっくばらんに言っちまおう。これには次期総裁の椅子がかかっているんだ。俺が保安課の坂元からその報告を受けたとき、総裁選の相手は丁度|酒井敬信《さかいたかのぶ》一人にしぼりこまれていたんだ。随分前のことだが、その頃《ころ》もう次の総裁選は酒井対賀山の一騎打ちになることがはっきりしていた。俺にだって野心はあるさ。中津川氏が本部長という関係もあり、ここは一番働くに越したことはない。駒井との関係を見のがすかわり、仰木谷由理子を酒井敬信に近づけたのさ。あの妖艶な美人でおまけにスーパーセックスの持主だろう。初老の酒井敬信だっていちころだったよ。彼女は駒井のほかにも安全なグラチュイティーの供給源が手に入ったわけだし、三方丸く納まるという奴だ。見ててみろ。もうすぐ酒井の奴は駄目になるぜ。何しろあの女をかかえて離さないんだからな」  津島は唖然《あぜん》とした。  政界とは何と泥《どろ》深い沼であることか。仰木谷由理子の生命の秘密も、駒井啓介の純情も、そして自分と井沢の交友関係も、一切合財のみこんで、音もなく明日へヌルヌル流れて行くのだ。津島にとって日本生命協会は、もうその泥沼そのものである。六年前実直な銀行マンだった駒井啓介を、クラブ扇屋へ一、二度案内したことが、これ程のことになろうとは……。  津島は徳利をとって手酌《てじやく》で呑みはじめた。 「芸者でも呼んでくれたらどうだ。今夜はここで徹底的にやるぞ。どうせ勘定は賀山派へまわるんだろう。いいじゃねえか、どうせ汚ねえ選挙のおこぼれだ。一人ぐらい呑む人間が増えたって……」 [#改ページ]   旧約以前     1  赤っぽくなった四畳半の畳の上に寝そべった彼の足許《あしもと》に、窓がひとつあけ放されている。窓はそこしかなく、雨戸を二枚閉めれば、この部屋は真っ暗になってしまう。  寝そべった位置から見る窓は、下三分の二が隣家の屋根瓦《やねがわら》、残りがよく晴れた日曜日の青い空——たっぷりと射《さ》し込んだ陽《ひ》ざしは、彼の腹のあたりまでを、ポカポカと暖めている。ときどき、ひどく肌《はだ》ざわりの良い春風が、すうっと顔を撫《な》ぜてゆく。  独身、二十六歳。小遣いも少しはあるし、貯金もだいぶ溜《たま》ったが、日曜日だからといって、ひょこひょこ浮かれ出る気は全然ない。 (出掛けたって碌《ろく》な目に逢《あ》いやしない)  そう考えている。  別にふて腐れているつもりはなく、本気で芯《しん》からそう思っているのだ。月に四万そこそこの給料で貯金が溜る筈《はず》である。  彼の勤め先は都心のオフィス街にあって、早い時には五十分かそこらしかかからない。始業は毎日九時——だのに家を出るのは七時か遅くも七時二十分。退社時間は五時で、セールスマンの彼には残業も余りないから、どんな事をしても五時半には家路につく。  デートなし。友人同僚と途中で一杯つきあうのもなし。映画もなし、毎日まっすぐ帰宅。日曜日は毎週今日と同じで、二階の四畳半で空と睨《にら》めっこか、そうでなければ読書。ラジオは高級なのが一台あって、それを必ずイヤフォーンで聞く。テレビは階下《した》の茶の間にあるが、チャンネル権は母親にあって、見たい番組も諦《あきら》めなければならない。つまりないと同じなのだ。  おそろしく几帳面《きちようめん》で、日記のほかに会社のと別に自分用の営業日誌を欠かさずつけている。煙草《たばこ》は吸わず酒のまず、歌も唄《うた》わず大きな声もたてることがない。毎晩十時に日記類をつけ終えると、いとも物静かに床をとり、何度もしつこい程目覚し時計を確認してから、灯りを枕《まくら》もとのスタンドに切りかえ、階段をひっそりと降りて、茶の間の障子の前で「おやすみなさい」と母親に挨拶《あいさつ》し、小便をして手を洗って、またひっそりと階段を上って行く。  これが判で押したような彼の毎日だ。十時半ごろ迄《まで》本を読むことがあるのが唯一の変化で、寝入る前に何やらぼそぼそと祈りのようなことをつぶやく。  つまり、品行方正この上なし。堅い一点張りの木仏金仏石《きぶつかなぶついし》ぼとけで、最低必要な許されたこと以外は何ひとつ手を出さない。模範青年といえば模範青年だが、何の為《ため》に生きてるんだとイキのいい奴《やつ》にどやされるのも、彼のような男なのだろう。  そのかわり、頭の中はいろんな空想でいっぱいだ。妄想《もうそう》と言えるかも知れない。  空想の中で、いつも彼は走り廻《まわ》っている。実際に駆け足で思うさま世の中をとびまわりたいからだ。憎い奴の顔は毎日変る。そいつらをさげすみ、メロメロにいたぶり、時には鼻もひっかけない態度を取って見せる。憎い奴らはそれがいちばんこたえるらしい。彼に無視されて、脅《おび》えた情けない表情で彼を見送るのだ。しかし彼はそんな連中にはお構いなく、係長や課長や部長や、時には訪問した得意先で、自分のズバ抜けた能力を示して見せ、相手に一目《いちもく》置かせる事に成功する。時々、憎い奴の間に母親の顔が混ることがある。母親は自分の倅《せがれ》が社会で快刀乱麻《かいとうらんま》の働きを示しているのを知って、あんぐりと口をあけ、その次は眼に涙を滲《にじ》ませて「大人になったねえ」と言い、家へ帰ると「おかえんなさい」と満面に笑みを浮べて茶の間の障子をあけるのだった。  空想は時々過去へも遡《さかのぼ》る。  誰《だれ》かが「危いよ、駄目《だめ》だよ」と大声で叫ぶが、少年の彼は小川にかかった細い材木の上をスルスルと走って渡る。別な子供がその後を追って来て、足を踏みはずすと大きな水音をたてる。彼は大笑いしながらあともふりむかず一目散に突っ走るのだ。  野球をやればホームラン、試験は満点ばかり、ピアノもギターも、楽器はなんでもこなし、喧嘩《けんか》は勿論《もちろん》クラスで一番……。  そんな夢でもしょっ中見てなければ、彼のような人生はとても生きては行けないだろう。事実、空想の世界に遊んでいない時の彼は、毎日のように(死んだほうがマシだ)と思っている。  悪運にとりつかれているのだ。  悪運と言ってもいろいろあるが、彼のはちょっとひどすぎる。物心ついてからこの方、一度だって〈お目こぼし〉にあずかったことがない。特に悪い運が向うからやって来るのではないが、きめられた規則に反し、してはならないとされたことをすると、覿面《てきめん》に罰を受けてしまう奇妙な性格に生まれついているのだ。 (前科のないのがめっけものさ)  二十六歳の今日、彼は自分をそう慰めている。  絶えず小さな怪我《けが》をしている子供だった。無論、余り幼い頃《ころ》の事は覚えている筈もなく、母親の愚痴めいた思い出ばなしで聞かされていることだけだが、家の外で近所の腕白《わんぱく》達と遊びはじめるようになってからの事は、ごく部分的にだが、今でも鮮やかに思い起すことがある。  どれもこれも、碌な思い出ではないが、とに角確かなのは、町なかで物を投げると必ずそれが通行人や硝子《ガラス》に当ったことだ。普通なら、たまたま運悪く……と言う所だが、彼のはただ運悪く、であって、たまたまが抜けている。必ず運悪く、人の顔にボールをぶつけたり硝子を壊したりする。  今から考えると、その子供当時でも、狭い横丁でボール投げをしたり、人家の密集している所で石を投げてはいけないと自覚していたのだろう。それを承知の上でやったから、多分ああいう結果になったのだろう。  駄目だよ、とか危いよ、などと注意されて、なおかつそれを行動に移すと、途端に叱《しか》られたり怒鳴《どな》られたりする悪い結果が生じる。  たとえば、これは小学校に入ってからの話だが……学校の廊下は走ってはいけないことになっている。そのきまりを無視して何度か彼も走ったことがあるが、そのたび先生に見つかったり、自分より小さな女の子と衝突して鼻血を出させたりして、結局ただの一度も完走したことはなかった。  また、これは今でも思い出すと口惜《くや》しくて、材木の一本橋を走って渡る空想を彼にさせる原因になっているのだが、無花果《いちじく》の木から落ちた思い出がある。  その無花果の木は自宅の裏にあって、悪戯《いたずら》ざかりの彼と、兄の英一《えいいち》をかかえた母親は、事あるごとに登るんじゃないよ、無花果の木は裂け易《やす》いんだから……と言っていた。  実がたわわになった或《あ》る年のこと、兄の英一がその木に登って実を※[#「手へん+宛」]《も》いだ。見ていた彼は、兄が木から降りるとすぐ、真似《まね》をして登ったが、彼よりはるかに体重のある兄が存分に揺《ゆす》っても平気だった太い枝が、呆気《あつけ》なく裂けて、彼は隣家との境になっている低い竹垣《たけがき》に顳※[#「需+頁」]《こめかみ》をぶつけ、今でも二|糎《センチ》 程の傷跡をのこしている。  丁度《ちようど》雨あがりで、濡《ぬ》れた土を半身にべっとりとつけた彼が泣き喚《わめ》くのを冷淡に見おろした兄の英一は、その時こう言った。 「不器用だなあ、お前は」  まだ共に幼かった兄の英一にさえ、彼のそうした不運な失敗ぶりが、何か特異なことに思えたに相違ない。だからその時の、不器用だなあ、という兄の言葉を、彼は今でも時々思い起す。  その時以外に、自分の毎度まき起すぶざまでみじめな失敗の特異性を、少しでも理解してくれたような言葉を耳にしたことがないからだ。  自分は駄目なんだ。他の子がやって叱られたりしない事でも、自分がやったらきっと失敗するんだということを心に刻みつけ、幼な心に慎重な行動をとるようになる迄には、ありとあらゆる災難が、こまごまと、嫌《いや》になるくらいしつこく彼につきまとった。  中学に進んで、本格的に試験というものに直面するようになると、彼の不運は新たな局面に入った。  知らない問題ばかりが出るのだ。  不勉強ではなかった。予習復習宿題のたぐいは、しなくてはいけない事で、少しでも手を抜いたりルーズにしたりすると、教室で教師から立ちどころに不勉強を追及されるハメになるので、彼はどちらかと言えば勤勉な生徒だった。  しかし、全力を尽《つく》しても覚え残しや度忘れ、記憶違いや理解し損ないの部分がある。そういう問題に限って、試験に出て来るのだ。  良い成績の残せる筈がない。一夜漬《いちやづ》けの山かけ勉強で、結構いつでも相当な成績をとる幸運児にくらべたら、まるで不器用で余分なところばかりつめこんでいる間抜け野郎だったのだ。  だが、ちょっとしたズルけ、悪戯、ルール違反などをしなかった少年がいるだろうか。そうした事の発覚は、何度も重ねて行なってはじめて起るのが普通だし、初めてやって一発目に叱られれば、それが不運というものだろう。  しかし彼のはドンピシャリ、いつでも必ず発覚し、或《ある》いは自ら外に顕《あら》われて手ひどい罰をくらうのだ。みんなが石を投げ、自分のだけがよその家の硝子を壊して、逃げようとしたらその家のおばさんがうしろで睨《にら》んでいた……などという情けない目に慣れっこになることが、どんなに彼を臆病《おくびよう》にさせたか、想像以上のものがある。  まさに、彼が感じている通り、生きて来れたのが不思議なくらいで、前科を持つ程の規則違反を犯さなかったのは幸運……というよりは、幼い時から懲りに懲りて、病的な迄の慎重さを身につけたからに他《ほか》ならない。  高校へギリギリの成績で進学できた時は、我ながら不思議に思った。進学に最低必要なだけ彼の答える問題が出てくれたのに、かえって薄気味悪いものを感じたものだ。  高校生にもなると、自分を襲う不運の形も結構|把握《はあく》でき、先まわり先まわりして、少しでもルールを踏み外すまいと努めた。  それにしても、よく遅刻した。  遅刻してしまうのである。させられると言っても良かった。  ほんの少し寝坊して、しまった、と後悔しながら登校する。駅から走る。やむを得ず走るのだが、その前に彼は自分できめた時間に起きなかったという、自主的な規則を破っている。だから碌な事が起らない。走れば転ぶか、悪くするとよろけて商店のあれやこれやを引っくり返したり壊したり。  しまいには、そんな時でも走らなくなってしまった。遅刻を叱られたほうがずっと楽だからだ。みんなが駆け出して滑り込みするのに、彼だけは悠揚《ゆうよう》迫らず歩いていた。  この頃から、彼は自分のそうした不運についていろいろと考えをめぐらし、完全でないにしても或る程度納得の行く結論をと、心がけはじめた。  友達づきあいもおのずから少なく、いつもひとりでじっとしているので、自然読書家になったせいもあるのだろう。罪や罰に関する書物を読み漁《あさ》り、すべてのルールから〈お目こぼし〉の量を沢山与えられている他人を観察することで、彼の頭の中には自然とひとつの考えがまとまって行った。  俺《おれ》は特殊な人間なのだ。  彼はそう結論した。世の中の人間はすべて、法律、道徳、規則、または自己内部でのひそかな美意識により行動を制約されている。しかし犯せば大ごとになる刑法にしたって、行為が直ちに罰を受けるとは限らない。法——ルールには実際上、白でも黒でもない灰色のトワイライトゾーンが存在する。むしろ灰色の地帯が人生のうまみであり、立小便をするたびに必ず罰金を払わされる人間など居はしない。オフサイドを自覚しても笛の鳴らない場合がよくあるのだ。  俺に灰色の地帯はない。  うっかり物も抛《ほう》れない子供時代から、電車の中で老人や妊婦に席を譲らないと、必ず近くにいる意地悪|爺《じい》さんに皮肉を浴せられる現在までを反芻《はんすう》して得た答がそれだった。  しかも罰はかなり物理的な形でやって来る。天罰というが、人に裁かれるならまだしも、罰を下すのが昆虫《こんちゆう》や鉱物の場合すら珍しくない。以前遠足に行って、生まれてはじめて立小便をした時は蜂《はち》にさされた。痰《たん》がからんで道路にペッとやったら眼にゴミが入る。チューインガムをポストにこすりつけた時などは、突風が吹いて煙草屋の看板が落ちて来た。  それ以上の悪事を働いたら殺されてしまうだろう。たとえ正規の法律にそむかなくても、自分がしてはいけない、したら他人が迷惑すると考えていることに叛《そむ》いてすら、この有様なのである。自分がこの年まで生きのびているのは、普通の人間の場合なら、九十九パーセント善良であるという証明のようなものなのだ。……そう思い、一層みじめな気持になった。  事実、彼は異常な立場に置かれていた。  大学へは行けず、高校を出るとすぐ小さな文房具の販売会社へ勤めた。その頃から、彼をしめつけるルールの枷《かせ》はますます厳しく、口のきき方ひとつでも、ちょっと穏当でない言葉を用いるとすぐ誤解されたり恨まれたりするようになった。  幼児の時、やたら怪我をしたのはこういうことではあるまいか。 「坊や危いわよ」  若かった母親が言う。ひょっとするとヨチヨチ歩きの乳児でも、その意味を解するのかも知れない。制止を知り、その理由を解しながら歩くから、転んでどこかを傷つける。  母親は余計気を使い、少し口やかましくなる。すると彼には留意すべき制約が増える。そしてその愛情ある助言をふり切って行動するから罰としてすりむいたり、コブを作ったり。それでますます周囲の大人たちは制約を彼に理解させ、彼のルールの枷は次第に重くなる。  今の彼はこんな美意識を持っている。  人なかで、誰にも判る共通の話題を大声で喋《しやべ》るのはよくない。他人に注意を強制するからだ。ラジオやテレビの音を大きくして聞くのも、前と同じ理由でよくない。放屁《ほうひ》も同じく強制的に悪臭を嗅《か》がすから……。  通勤のラッシュ時に自分だけ急ぐのはよくない。全部が急いでおり、暗黙の内に秩序ある流れを定めているからだ。  どういうわけか、自分自身に対してこまかすぎるルールを作ってしまっていた。ルールの枷に縛られすぎた為かもしれない。  それが社会人となって一層緊張し、言葉遣いにまでルールを拡大したのだろう。とに角、何かというと睨まれ、失敗しそれが、度重なって彼への軽視を生み出した。  彼のほうも、臆病さがつのり、慎重になりすぎ、遂《つい》にはいるのかいないのかはっきりしない存在になって行った。  何かというと他人の蔭《かげ》にまわり、びくびくと人の顔色ばかり窺《うかが》っているようだから印象はどんどん悪くなり、得意先へ行っても満足に相手にしてくれず、営業部の持て余し者になってしまった。  近頃では売上もさっぱりなく、これで良《よ》く馘《くび》にならないものだと思う程だが、実際は彼を整理の対象に考える者もいない程、存在の影が薄くなっている。     2 「只今《ただいま》ァ」  力のない腑抜《ふぬ》け声で、彼は帰宅して来た。靴《くつ》を脱ぎ、まるで無意識のようにブラシでこすると、きちんと揃《そろ》えて下駄箱へ入れる。茶の間ではテレビの音がしている。 「お母さん、只今……」  もう一度声をかけるが返事がない。この何か月か、母親は彼の声に答えたことがない。彼はまるで存在しないかのようだ。  力なく階段を上り、服を着換えてまた下へ降りる。そっと障子をあけて茶の間へ入ると、テレビに向った母親のうしろを通って台所へ行く。……案の定、今日も食事の仕度は出来ていない。  彼は薬罐《やかん》に水を入れてガスコンロにのせ、火を点《つ》けた。塩昆布《しおこんぶ》と佃煮《つくだに》を見つけて茶碗《ちやわん》と箸《はし》を出し、茶の間へとって返してテーブルの上の急須《きゆうす》を取った。 「面白い、お母さん」  テレビを見ている母親へ阿《おもね》るようにそう言う。 「ふ」とも「ん」ともつかないような答えで、ちらっと彼のほうを見て、すぐまたテレビへ視線をやってしまう。熱中して見ているという程ではなく、つい眼が行ってしまうという程度の見方なのだが、そんなつまらないテレビでさえ、彼よりは注意を引きつけるのだろう。  湯が沸くまで、彼は急須を手にしたまま突っ立ってテレビを見ていた。……母親と兄がいない時だけが、チャンネルを選べる。もし四年前に父親が死んでいなければ、三人とも留守の時でなければ好きな番組を見る機会はない……一人でも減って助かったな。  テレビのチャンネル権がないのはいい。しかし、一度でもいいから、そんな不逞《ふてい》な言葉を、せめて実の母親くらいには言って見たい。そう思うと言葉が喉《のど》もとまで噴きあがって来るような衝動を覚えた。 (いけないいけない。どうも近頃危いことばかり考えるようになった)  永年|培《つちか》った自制心が辛うじて彼を支える。湯が沸いて、彼は台所へ戻った。  食事をすませ、二階へ上ってしばらくすると兄の英一が帰って来た。 「只今ァ」  と威勢のいい声がする。 「おかえり。早かったね」 「うん。今日は接待も何もなしさ。腹減ったな、飯にしてよ」  赤茶けた畳に寝ころんだ彼は、階下のそうしたやりとりを、ぼんやりと聞いていた。見慣れた天井の木目が、ふと気づくと朧《おぼろ》にかすんで見えなくなっていた。 (泣いてるんだな、俺)  そう気づくと、耐えられずにうつ伏せになり、腕を額の下にした。泪《なみだ》はとめどもなく溢《あふ》れて来る。  ここ何か月も話しかけてくれない同僚達。何の命令も下さなくなった上司。いくら話しかけても気づく様子のない得意先の人々。棚《たな》から取って来た本と千円札を、根気よく突き出していないと仲々受け取ってくれない本屋の店員。いくらでも順番を間違えてあと廻しにしてしまう床屋……帰って来ても気づいた様子さえ見せない母親。 (俺はそんなに影が薄いのか。どうしてこうなってしまったんだ)  ひどく意地の悪い何かが、彼に異常な程強い制約を与えたのだ。それをなんとか切り抜け切り抜けして生きて来た努力は、並大抵のことではなかった。その努力の酬《むく》いが、彼自身の存在を薄め、今ではまるで透明人間のようになってしまっている。  肉の焼ける匂《にお》いが漂って来た。きっと母親は彼が食事をひとりですませた事すら気づいていないのだろう。 (俺は一体なんだ)  泣きながら彼は拳《こぶし》を固く握りしめていた。  そんな事があってから更に数か月、彼は空腹に慣れてしまっていた。ルールの枷どころか、事態ははるかに異常なものに展開していたのだ。  影が薄くなったどころの騒ぎではなく、誰も彼の存在を認めてくれようとはしないのだ。家で食事をし損なうと、それっ切り飯を食う機会はないのだ。どんな商店も、彼が金を出しても受取ろうとはせず、従って何も売ってはくれない。思い切ってレストランに座ってみても、ウェイターやウェイトレスは素通りするばかりだった。  いや、それどころか、恐ろしい事に先月から会社の経理部が彼の給料を忘れはじめ、耐えかねて受取りに行くと、やっとの事で彼の給料袋を見つけ出す始末だ。そして今月は、遂にそれすらしてもらえず、いくら言っても聞えないのか素知らぬ顔をするばかり。  思い切って経理部のカウンターをのり越え、自分の給料袋を探そうかと何度も考えたが、それは明かに刑法の対象になりそうなことだった。長いルールへの忍従の年月が、彼にそれを思い止まらせてくれた。  彼は出社しても無駄《むだ》と知って、とうとう一日中街をぶらついて過す身の上になってしまったのだ。  ひとつ不思議なのは、毎月二十五日の晩に渡す三万円程の金を、母が一向に催促しないことだ。兄の結婚も間近いのだし、これは重大なルール違反なのだが、何のとがめもないようだった。  気がついて銀行へ貯金をおろしに行ったが、一般の商店同様銀行員達はまるで相手にしてくれない。流石《さすが》に怒って、生まれてはじめてのような大声で抗議したが、反応はまるでなかった。  かと言って、一文なしで街を歩けるわけもなし、自動販売機だけは駅の切符であれ、コカコーラであれ、硬貨に忠実に反応してくれるのだから、とに角金は要るのだ。  困り果てた彼は、預金通帳と印鑑をそえて、母親に要るだけ銀行からおろしてくれるようメモし、母親が便所へ立ったすきに財布から五千円ばかり抜き取ってしまった。  が、それも失敗だった。彼に使えるのは自動販売機相手の硬貨だけで、紙幣はまるで役に立たない。仕方がないからあらためて硬貨をくすねた。  遊園地へ行くと菓子パンの出て来る販売機があるのを知ってからは、毎日遊園地通いをし、オフィス街の昼休みどきには、定食の自動販売機があるのに気づいて、しばらくはそこへも通った。  しかし母親の財布にある硬貨は多寡《たか》が知れている。時には紙幣をそこへ置いて、釣銭《つりせん》をとらずに必要な品物を持ち帰ることもするようになり、窮すれば通ずで、なんとか暮して行けるようになった。  それにしても、働かないのだから次第に母親からくすねるのも気がさし、もともと几帳面な男で、くすねた金額と預金残高を記録していたので、遂にもうこれ以上は金がないというところ迄来てしまった。  今度こそ本当に餓《う》えた。  出勤を装って毎日出掛けていたが、そうなっては家を離れることも出来ず、定期券の期限も切れてしまったので、朝から家にゴロゴロし、腹が減ると台所へ行って泥棒猫のように冷飯を盗み食う。食事時になっても、母親は彼の存在に気づかないのだろう、箸や茶碗を出すことすらしてくれなかったのだ。  兄の英一と母親が食事をすませると、飯も菜《さい》もまるで残らないようになって来たので、彼はひどく脅《おび》えた。母親は一家が三人であることを忘れ、二人前の用意しかしなくなったのだ。天涯《てんがい》孤独という言葉があるが、彼は自分に責め帰《き》す何の理由も持たぬ、肉親からも見放されたのだった。  餓《う》え以上に辛いことである。  彼は混乱した。疎外されるにはそれだけの理由があろう。顔が醜いから相手にしてもらえない。不具だから仲間外れにされる。……それなら良い。然し彼は少し痩《や》せ形だが、筋肉質のすらりとした、脚の長い、いわゆるカッコいいスタイルをしている。美男の評判高い兄の英一によく似ていて、清潔な感じでは兄より一枚上でさえある。  人に不快感を与えるのはよくないと自らを戒めているので、一見して不愉快な印象を与えることなど、まずないと確信している。  それなのに、全く初対面の、機械的に多勢《おおぜい》の客を処理する食堂の店員達さえ、彼の存在を無視し、相手にしてくれない。一体世の中に、彼に関するどんな情報が流布《るふ》されているというのだ。テレビでしつこく写真を映される指名手配犯人だって仲々見分ける人間はいないというのに……。  狭い四畳半の中で、のたうちまわるように過した数日の間に餓えで窶《やつ》れ果てた彼は、とうとう獣じみた気持で外へとび出した。  俺にだって生きる権利はあるのだ——。  半狂乱と言っても良い。実際そう喚きながら、よろよろと表通りへ出た。どんな苛酷《かこく》な罰を受けても、存在を認められたほうが気が楽だと思った。ルールを守り抜くことで陰にかくれていた半生がうらめしかった。こうなったら出来るだけ多くの人間に自分を罰してもらいたい。それで殺されても、他人が自分を認めた上で殺すのなら本望だ……そう思い込んでいた。  まず彼はパン屋へよろめき込んだ。 「腹が減ってるんだ。パンを盗むぞ……」  彼は店員を突きのけ、ショーケースの内側へ入り込むと、わし掴《づか》みにしたパンをがつがつとむさぼった。餓えが次第に充《み》たされて来るにつれ、遂に犯罪者になったという、彼にとって致命的に思える事実が、彼を昂奮《こうふん》させた。  が、奇妙な事に彼一人が騒いでいるだけだった。彼がショーケースの内側でパンにくらいついている間にも、二、三人の客が出入りし、突きとばした女店員は、何事もなかったように彼の傍で立ち働いていた。 「金なんか持ってないぞ。払わないぞ」  そう言っても知らぬ顔をしている。気合抜けした彼は、そのパン屋を出るとき、律義《りちぎ》にも、「ご馳走《ちそう》さま」と挨拶した。それでも店員は知らぬ顔だった。  次に彼が目ざしたのは交番だった。警官が二人いて、歩道のわきに白い自転車が置いてあった。彼はその自転車を蹴《け》倒して交番に押入った。 「俺をつかまえてくれ。いま泥棒《どろぼう》したんだ。あそこのパン屋の店員が知っている。さあ、パン屋へ来てくれ」  二人の警官は何の反応もしない。胸ぐらをつかまえてゆさぶっても抵抗せず、彼がそこにいることすら気づかぬ様子で、手をはなすと気どったやり方で上着の乱れをつくろう。  失望ではなく、その時彼にやって来たのは深い恐怖だった。想像を絶する何ものかが、彼の存在を拒否することにきめていたのだ。攻撃ではなく無視、非難ではなく放棄なのだ。  彼は交番の入口に突っ立って、通りの人々に向って叫んだ。 「助けてくれ。ここに俺がいるのを見てくれ。どんな悪い事でもやっちまうぞ」  自転車をたて直すとハンドルを車道に向け、走って来るバスの前へ突き放した。四十キロぐらいのスピードでやって来たバスは、自転車を勢いよく跳ねとばすと急ブレーキをかけて止った。運転手が降りて来る。 「ざまみろ、止った、止った」  彼は逃げ出したい衝動を必死に抑《おさ》えてその現場に踏みとどまった。交番の二人の警官は彼のわきをすり抜けて衝突した場所へ小走りに行き、ぐしゃぐしゃになった自転車を一人が持ち帰ると、もう一人が笛を吹いてバスに発車をうながした。  バンパーをへこませたバスは、すぐに何事もなかったように走り去った。 「畜生、馬鹿野郎」  泣きながら彼は怒鳴った。しかし、人だかりもせず、彼は無視された儘《まま》だった。トボトボと家に帰った彼は、再び四畳半にひっくり返って、どうしようもないこの異常事態を考えている。  誰も認めてくれない。ルールの枷に縛りつけられていた今迄のほうが余程幸福だった。ひょっとすると……と、そこ迄考えた時、彼の頭の中で突然壁の崩れたような衝撃があり、そのあとに今迄見もしなかった景色のようなものが見渡せた。それは彼自身の全身像のようだった。     3  世の中に存在してはいけないのが彼だった。しかし彼は存在してしまった。それが存在してしまった以上、世のすべての秩序を乱さぬよう、彼はルール通りに、真綿でくるんだようにそっと置いておかれたのだ。元来存在すべきでないものが存在する以上、それに自己主張させ、好き勝手に動きまわらせては彼らが困るのだ。  ……彼ら。  それは一体何者を指すのだろうか、彼自身にも判らなかった。ただ、突如崩れ落ちた頭の中の壁の向うに、そういう考えが現われたのだ。ただ、今迄自分をしめつけ、辛い立場に追い込み続けていたのが、その〈彼ら〉であることを、理屈抜きに理解したのだ。  理解したと言うが、ひょっとするとそれは彼が狂った証拠なのかも知れなかった。理由の説明がつかず、悶々《もんもん》とした揚句に、自分勝手なそんな得体の知れない存在をでっちあげ、納得《なつとく》しようとしたのかも知れない。しかしその時の彼には、それが天啓のように訪れた、一種の悟りとして受け取れた。 〈彼ら〉は敵だった。憎悪の対象以外の何物でもなかった。〈彼ら〉にとっても彼は敵であり、今迄正体をかくして彼を苛《さいな》みつづけていた……〈彼ら〉と闘ってやる。  生まれてこの方抑圧しつづけて来た闘争心に、いっぺんに火がついた感じだった。相手は常識を超えた、まるで不合理な怪物たちなのだ。どうせこんな風に世の中から無視されて生き続けるなら、いっそ死んだほうがましだ。それでなくても俺は死んだも同然だ。やるならこっちも常識なんぞにかかわっていられるものか。  彼は目を血走らせてそう決心した。  一時間ほど後、彼は繁華街の中心にいた。デモの学生達がやるように舗道の敷石を叩《たた》き割り、手当り次第に投げつけた。  銀行の大きな窓ガラスが何枚も音をたてて砕け散った。きらびやかなデパートのショーウインドーが滅茶滅茶《めちやめちや》になり、信号待ちの赤いスポーツカーの中へとがった石がとび込んで、頬《ほお》から血を流した青年がよろめき出した。  気取って歩いている美人のハンドバッグがひったくられ、口金をあけて逆さに振られたので、中身が歩道中に散乱した。 「ざまみろ、ざまみろ」  彼はそう喚きつづけ、そのあたりを気違いのように走りまわった。邪魔な奴は突き倒され、車道に突きとばされて車に跳ねられる者も出た。宝くじ売り台がひっくり返り、一枚百円の券がひらひらとそこら中に乱舞した。  その乱行《らんぎよう》に疲れはじめた彼は、次第に背筋に恐怖を感じ、やがてこそこそと人波にまぎれ込んで現場から逃げのびた。しかし、逃げれば〈彼ら〉に敗けるのだと思い返し、千メートル程離れた所で再び暴行を開始した。  だが、突き倒された人間は顔もしかめずに埃《ほこり》を払って立ち上ると、それ迄と同じように歩き出す。車に跳ねられると、どこからともなく自発的に何人かが手をかして怪我人を車道から助け出し、やがて救急車がやって来て連れ去る。割れた硝子は被害者達が手早く破片を掃ききよめ、何事もなかったようにまた仕事に戻っている。ハンドバッグをぶち撒《ま》けられた美女は、丸っこい膝小僧《ひざこぞう》をむき出して中身を拾い集め、下心ありそうな男どもが親切気にそれを手伝ってやっている。つまり、彼は相変らず存在せず、作り出した混乱もつかの間に元へ戻ってしまうのだ。  彼は怒った。あれ程ルール違反にやかましかった〈彼ら〉が、今ではルール違反さえ無視してしまっている。彼が欲しがり続けていた〈お目こぼし〉どころか、この分なら殺人すら無視するだろう。  それならよし、あいつら皆殺しにしてやる……憎い憎い会社の上司同僚の顔が浮んだ。  刀剣。古めかしい看板が目に入った。飾窓に何某作、何年と記した説明書と、由緒《ゆいしよ》あり気な鋭利な兇器《きようき》が並んでいた。槍《やり》まで置いてある。  ずかずかと店へ入った彼はその槍を手にすると内側から表へ向って何度も突き出した。飾窓の硝子が砕け大きな音を何度もたてるが、和服を着た六十がらみの店の主人は眉《まゆ》ひとつ動かさない。その貫禄と冷静さが彼の上ずった心に慚《は》じをかすめさせ、憎しみを燃え立たせた。 「ぶった切ってやる」  彼は人形のように正座しているその老人の眼前で、手近の刀の鞘《さや》を払うと真向微塵《まつこうみじん》と切りおろした。  ガツンと跳ね返る手応《てごた》えがあって、老人の脳天から赤い靄《もや》が噴きあげた。ゆっくりと中腰になり、そり返って倒れようとする体へ、今度は刃を上にして思い切り突きさす。刀は老人の心臓を貫いたらしく、力を入れて抜くと、それにつれて酒樽《さかだる》の栓《せん》を抜くように血潮が勢いよく彼の胸許《むなもと》を染め、生暖かい感触がワイシャツを通して肌に来た。 「殺《や》ったぞォ」  血刀をひっさげて通りへ躍《おど》り出た彼は、完全に逆上していた。すんなりと伸びた四肢《しし》をぴっちりしたニットのスーツでつつんだ、小柄な十五、六歳の少女が来かかると、彼はジャイアンツの王選手のようなフォームで狙《ねら》いをつけ、満身の力でその細い胴に白刃を叩きつけた。ぐじゃっという鈍い音がして、少女は倒れ、見る見る内に血溜《ちだま》りを作った。  切るというより撲《なぐ》るといった具合で、彼は通行人を片っぱしから薙《な》ぎ倒した。恐らく刃がひいてあるのだろう。スッパリ切れるわけではなく、倒れた者は悶《もだ》え呻《うめ》いた。  十四、五人も切り倒したころ、四方八方からサイレンの音が近づき、パトカーやら救急車が集まった。彼は刀を投げ棄《す》てて、 「俺だ俺だ、殺人鬼は俺だぞ」  と呼び続けたが、集まって来た警官は誰一人彼を認めた様子もない。彼は一人の警官にしつこくつきまとって、 「ねえ、俺がやったんだよ。なんとかしてくれよ」  と懇願して見たが、うるさそうな顔もせず、黙々と被害者を収容するばかりだ。それどころか、これだけの大事件が起きたのに、弥次馬《やじうま》一人集まらない。通行人は血の海の中を、まるで雨あがりの水溜りをよけるようにして、平然と通りすぎてしまう。 「こいつ、いい加減にしやがれ」  彼は一度手放した刀を拾うと、その警官が被害者を運ぼうとかがんでいる背中へ、柄《つか》をも通れと突き立てた。 「グエッ」  と陰にこもった声をたてた警官は、虫の息の被害者の上に折重なって倒れ伏した。即死である。  彼は背中に刀を突き立てた警官の体からガンベルトを外し、ずしりと持ち重みのする拳銃《けんじゆう》を抜き取ると、 「今度は会社の奴らを殺しに行くぞ」  とひと声のこして走り去った。  勤めていた会社へ着いた彼は、丁度居合わせた同僚の一人に約一メートルの距離から拳銃をブッ放した。両眼の中央、鼻柱のところに大穴をあけたその男は、ボロくずのように床《ゆか》に投げ出された。彼が与えられていた得意先を、彼が毎日訪問しているのにもかかわらず、あとから行って注文を取っていた男だ。  係長を殺し課長を殺し、経理で彼を無視し続けていたコケティッシュな女を殺し、とうとう社長のどてっ腹にまで風穴をあけてやった。  弾丸を費《つか》い果し、今来るか今来るかと警官隊を待ったが、死体が次々と社員の手で医務室に運ばれるだけで、犯罪現場につきものの異常な昂《たかぶ》りも見られず、すべては平穏無事に進行して行く。  窓の外へスチール製の椅子《いす》や机を放り出し、書類を手当り次第撒き散らし、キャビネットの中身に火をつけ、蛍光灯《けいこうとう》を壊しても、誰もひとことの苦情も言わない。  再び、あの壁が崩れ落ちる感じがして、その新しく見えはじめた景色の中で、何者かが自分の狂った行為を一所懸命正常なものにつなぎ合わせ、ひたかくしに彼という不条理な存在をかくしてしまう努力を続けていた。 (あいつら困ってやがる)  彼は全く脈絡というものを欠いた突然の認識で、自分の優勢さを味わった。 (俺はもう好き放題して良いんだ。二十六年間の仕返しをしてやるんだ)  彼はそう思い、何をすべきか考えた。  四時近くなって、彼は会社から出た。途中で洒落《しやれ》た旅行|鞄《かばん》を物色してかっさらい、近くの銀行の通用口から、忙しそうに働いている銀行員の中を縫って、大きな金庫へ入った。金庫には紙幣の塊《かたまり》がいくつかあった。 「もらって行くぜ」  彼はわざと大声でそう言い、鞄につめこんだだけでなく、机の間をまわって、まだ整理中の現金を銀行員の手からとりあげさえした。そして悠然《ゆうぜん》と次の銀行へ向ったのだ。  オフィス街の銀行をひとまわりすると、母親がこれからの生涯《しようがい》を、贅沢《ぜいたく》に暮してもまだ余るくらいの金が集った。彼自身に金は不要だったが、その時彼はこれ以上自分が長く生きて行けるなどとは、全く考えてもいなかったのだ。  物哀《ものがな》しい、すべてが終ってしまった虚脱感を味わいながら家に戻った彼は、母親のいる茶の間で山のように紙幣を積みあげ、何も聞えはしないのを承知でこう語りかけた。 「あんたが悪いんじゃない。俺はこの通りかたわじゃないし、性質だって悪い方じゃないんだ。でもね、〈彼ら〉が俺をこんなにしちまった。二人いる筈の倅が一人になってしまったのに、それにさえ気づかないなんて、可哀《かわい》そうだと思ってるんだよ。でもね、〈彼ら〉がそうしたんだ。今日俺が殺した人達だって、〈彼ら〉の力で俺同様居なかったことにされてるんだろう。俺は余り者なんだ。〈彼ら〉にとって、俺は余分だったんだよ。これからどうなるか知れないけど、この金まで無視できはしないだろう。突然あんたはこの家に大金があるのに気づくんだろうが、そしたらしあわせになってくれよね。たんすの抽斗《ひきだし》へちゃんとしまっとくからね」  ぽつねんと独りで茶をいれて飲んでいる年老いた母親にそう言いながら、彼は時々|泪《なみだ》を拭《ぬぐ》わねばならなかった。  紙幣を抽斗に入れると、彼は空になった鞄を持って四畳半へ戻った。     4  肉体だけはあるが、実際には誰の眼にも存在しない人間……こんなことがある筈はないが、現実に今の彼の立場がそうなのだ。  すべての、どんなささいなルールにもきつく縛られ、身動きならない羽目に追い込まれた彼は、結局すべてから疎外され無視されることで、逆にどんなルールからも見放されてしまったのだ。  壁が崩れ落ちるような感覚を味わうたびに、〈彼ら〉という漠然《ばくぜん》としたこの世の為政者を知覚するようになるのは、その窮極の仕組みに一歩一歩近づいて行くからなのかも知れない。誰もが知らなかった、この世の中の根本的な仕組みに……。  自己を認めさせようと、半《なか》ば錯乱状態で犯したあの殺戮《さつりく》も、結局は無駄な事だったのだ。なぜ自分が余り者になり、〈彼ら〉が実際にこの世でどんな役割と権力を持っているのかよく判らないが、これが世の中の根本的な仕組みとかかわり合っていることは、理解というよりは知覚で判る。この先どうなるか見当もつかぬが、あれだけの大量殺人、悪逆非道をやってのけたからには、いずれ何らかの報いを受けねばならないだろう。裁きの下るまでに、正常な人生で経験できる筈だったことを、もっとやって置いたほうが良いんじゃないだろうか。裁きの時は刻々迫っているような気がしてならない……。  夜は更《ふ》けていた。階下では兄の英一が母親と結婚式のあれやこれやを話し合っている。 (俺はまだ童貞だ)  そう気づいた時、彼の性欲は勃然《ぼつぜん》と奮い起った。 (女を犯せ。やっちまうんだ)  彼には憧《あこが》れていた女がいる。おどおどと脅えながら暮していたので、恋心を覚えてもどうする手だてもなかったが、こうなったら思いの儘《まま》に出来るだろう。セックスについては書物で知り抜いているつもりだが、実際にはセックスの全般に亙《わた》って罪悪感がつきまとい、オナニーすら経験したことがない。 (このまま死んでは可哀そうだ)  そういう自己|憐憫《れんびん》もあって、彼は勇んで立ち上った。  その女の家はよく知っていた。長い髪の、少し冷たい顔だちの整った美少女だったが、今ではふくよかな色気を放射する成熟した女になっていた。彼女に恋心を感じてからもう五年近くなる。同じ町に住み、同じ駅から通勤している。  彼は暗い道を小走りに辿《たど》り、暗く閉されたその家の裏手の硝子戸を破って中に入った。  女は六畳程の華やかな洋間のベッドに寝ていた。物音をたてても動きまわっても、自分がする限り他人は何の反応も示さないのを心得ている彼に、警戒心などまるでなかった。  寝ている女の毛布をそっとめくると、いかにも美貌《びぼう》を意識している女らしく、外国映画に出てくるような薄ものに贅《ぜい》を凝らした、白い豊かな体が伸びていた。  彼は喘《あえ》ぎながらそのすべてを脱がせた。豊かな胸に唇《くちびる》をあて、その頂上の小さなしこりを口にふくんだ時、彼は自分を待っている〈彼ら〉の制裁を忘れ、昼の血の香を忘れた。  女は軽い寝息をたて続け、撫《な》でまわされ、吸われ尽しても醒《さ》めなかった。むっちりと重なった太腿《ふともも》の間の、それこそ彼が諦《あきら》め切っていた柔い扉《とびら》に指をかけると、女の生理が夢うつつにその部分を熱くゆるませているのが判った。肉の内側に彼の愛撫《あいぶ》が及ぶと、寝息は急に喘ぎに変りはじめ、無意識の内に女は両掌《りようて》をおのれを乳房にあてた。眉を寄せ、白い小粒な歯の間から、時折り唇をしめす為の桃色の舌がのぞく。何秒か置きに下半身がうねり、ともすれば彼の手をしめつけそうにしていたのが、急にあられもなく下肢をひらき、彼の指に犯されたまま、両掌がふたつのゆたかな丘をにぎりしめた。丘は歪《ゆが》み、頂は堅く突き出していた。  彼がぬめぬめとした襞《ひだ》の間に押し入った時、女は明らかに醒めていた。唇を合わせると、女が彼の舌を呼び込み、明らかに訓練のあとを感じさせるやり方で彼を痺《しび》れさせた。彼の上方からの動きに、女は腕を彼の首にまくことで応《こた》えて来た。生まれてはじめての、貯《たくわ》えに貯えた男のエネルギーを、女は呻き、痙攣《けいれん》し、挙句は位置を変えて彼の両肩に手を突いて烈しく積極的に受け止め、遂には彼の堅く締った尻《しり》の筋肉を抱いて絶え入った。  その儘すやすやと寝入る女に毛布を元通りかけ、手早く服を着た彼は、溢れるような充足感を噛《か》みしめつつ、その女の家を出た。  彼が誰だったか、何をされたのか、恐らく知る事はないだろう。然しあの瞬間、お互いの肉欲の中で女は彼を認識していた。〈彼ら〉は女に受精すらさせなかったに違いない。然《しか》し、彼の欲する行為を止める力は〈彼ら〉になかったのだ。  彼は〈彼ら〉に感謝したいような気分だった。 (俺は王だ。万能の神だ)  そう思った。ただ、誰も彼を見ず、彼の行為を認識しないだけなのだ。たった今、彼は一人の美しい女に艶夢《えんむ》を贈ったのだ。彼女は夢で神と交わったのだ。 「どうにでもなりやがれ」  彼は夜道をそう喚《わめ》き喚きさまよった。天にも昇る気がした。とび跳ねたい気持だった。  彼はその夜から、思い浮ぶ美女を片はしから犯してまわった。映画スター、流行歌手、ホステス、スチュワーデス……。  しかし、所詮《しよせん》セックスはそれ迄のことだった。以前通り、虚《むな》しさが胸に溢れ、何よりも他人に、人々に自分を認めてもらえない哀しみに圧倒された。  或る朝、彼はオフィスへ急ぐサラリーマンの波を眺めて、遂に耐え切れなくなった。 「俺を見ろ。俺の言う声を聞け……」  叫び続けても人波は流れるままで、どの一角も立ち止ってはくれない。彼は巨大な駅前広場の上空から呼びかけたい気がした。 (上へ昇るんだ。俺はなんでも出来るんだ)  そう思った時、例の壁が崩れる感覚が起り彼は実際に虚空に浮いた。人々は彼の下方で相変らず歩き続ける。 (そうか、俺は物理法則からさえ見放されていたんだ)  突然そう理解した。  すべてに法則がある。存在は法則に従ってある。人と人との組合せもルールによって精妙に組合わされている。彼一人その組合せから脱落していたのだ。〈彼ら〉と感じたのは、そのルールを支配する大きな宇宙の最終的な法則だったのだ。彼を縛りつけ、疎外したのは自然そのものだったのだ。彼が存在してしまった不条理を、自然はその巨大きわまるやり方で調整していたのだ。 (俺は自由だ。何物より自由だ。この通り空を飛べる。月へだって歩いて行けるんだ)  彼はそう思うと、思念を地球の外へ向けた。彼は大宇宙へさまよい出た。  月を見物した。火星も見た。木星も土星も、知っている星々の間を瞬時の内に渡り歩き、遂には居所さえさだかでなくなった。しかし星々は光り輝き、宇宙は厳然としてそこにあった。 (生意気な奴め)  彼はそう自然を侮《あなど》った。 (お前のいない所へ行ってやる)  彼は宇宙の涯《はて》を求めた。すると星は消え、暗黒の空間にいた。 (時間もなくなれ、空間もなくなれ)  そう考えたとき、時間も空間もなくなっていた。 (見ろ、俺は万能だ。もう俺には手をつけられないんだぞ)  彼はそのまま、その絶対の無の中で休息した。何千億年も一瞬だろうし、一瞬も何千億年かはかり知れない休息だった。  彼は別れた自然を想《おも》い出していた。星を創《つく》り時を流れさせ、空間を支配し、人間の一人一人をも微妙に組合わせる……。 (なんという凄《すご》い奴だったんだろう。しかし、たったひとつ手違いをした。俺を存在させてしまったことだ。しかも、たったあれっぽっちの混乱で食い止めて、俺を抛《ほう》り出しやがった)  そう考えたとき、また壁が崩れ落ちた。 (俺を此処《ここ》へ寄越したのは奴なんだ。奴は俺の自由と引き換えに、自分の世界の安定を確保したんだ。二度とあそこへは帰れまい)  彼はそう覚《さと》り、ためしに帰ろうと試みた。  帰れない。  彼は絶対の無の中にあり、時の流れぬ場所で、想念だけで生きていた。  想い出の中で、母親や思慕を捧げた美女や、数知れぬ人々が彼をとりまいていた。憎み、侮り、悩み、喜んだ日々が懐かしかった。 (俺にはあれが必要なんだ。あれが欲しい)  彼は幾度もそう思った。  絶対の無の中で……。  再び壁が崩れ落ちた。 (そうだ。俺もあいつと同じになればいい)  そう気がついた彼は、あの無限の星々にかこまれた小さな地球に、自分自身を認め、敬い、愛してくれる人間社会を、彼自身の世界を創ることにした。  思いを凝らし、その手順を練りあげた彼は、閉じ込められた絶対の無の中で、大声でこう叫んだ。 「光あれ……」  すると光があった。 [#改ページ]   おまへたちの終末  また嬰児《えいじ》が駅のコインロッカーで死んでいたという。 「いったいどういうつもりなんだ」  飯田《いいだ》は朝刊を隣の椅子《いす》の上に置き、箸《はし》をとりあげながら言った。 「だからおよしなさいって言ってるのに」  妻の咲子《さきこ》が湯気のたつ味噌汁《みそしる》の碗《わん》を飯田の前へ置いた。 「出掛ける時、持ってっちゃっていいのよ。電車の中で読めばいいのに」  咲子はからかい気味であった。 「あんな混《こ》んだ電車で新聞が拡《ひろ》げられるか」  味噌汁の実は大根の千六本である。飯田はそれをたっぷり入れた味噌汁が好きなのだ。 「だって、毎朝新聞を見ては憤《おこ》ってるんですもの。朝御飯の消化によくないわよ」  飯田は答えずに箸を動かしている。味噌汁、飯、漬物《つけもの》、飯、味噌汁……。 「ご馳走《ちそう》さま」  四角いテーブルの、飯田と向き合った位置にいる娘の静江《しずえ》が、そう言いながら皿とコップを手に椅子をすべりおりた。小学五年生である。 「またミルクを残したのか」  飯田は箸の先で静江のコップをさした。 「だって残っちゃったんですもん」  ですもん……と尻上《しりあが》りに言い、静江は母親のうしろをまわって、キッチンの流しへそれを置くと、 「パパ、行ってらっしゃい」  と小走りに玄関のほうへ去って行った。 「変な言い方だ。行って参りますと言わせろよ」  二人だけになったダイニング・キッチンで、飯田は飯のおかわりをしながら咲子に言った。 「いいのよ、あれで」 「なぜだ」 「あなただって、すぐ出掛けるんですもの」 「行って参りますが正しい」 「だって、女の子ですもの」  飯田は茶碗を咲子から受取り、大根の千六本を味噌汁の碗の底から探り集めると、飯の上へのせた。 「なぜ女の子なら……」  飯と一緒に千六本を口に入れる。 「女は男を送り出すものじゃないの」  飯田は黙って食べた。食い方が恐ろしく早い。飯、漬物、飯、味噌汁……。咲子も食事をはじめる。  飯田が箸を置くと、咲子は素早くテーブルの上のポットをとりあげ、急須《きゆうす》に湯を入れた。 「今日も健児《けんじ》は朝飯抜きか」 「もう三十分も前に出ましたよ。授業が始まる前に練習するんですって」  長男の健児は中学三年で、サッカー部員なのである。今年の春からキャプテンになっている。 「授業が終ってからも練習するんだろう。朝飯抜きでよく平気なもんだ」  飯田は熱い茶が入るのを見ながら、不満そうに言った。 「ちゃんとお弁当を持たせてあるわよ。大会が近いんですものね」  咲子は急須を置き、得意そうに微笑した。 「だから私も大変……スタミナのつくお弁当を考えてやらなきゃならないんですもの」  飯田は湯呑《ゆの》みをとりあげる。 「それより朝飯をちゃんと食わせろ」 「いくら言ってもだめなの。恰好《かつこう》が悪くなるって」 「恰好……」 「ジーパンのよ。近頃《ちかごろ》の子って、みんなおしゃれですものね」  飯田は熱い茶を飲みながら、咲子を見つめた。咲子はまるで恋人の惚気《のろけ》を言っているような表情だった。が、それもほんの僅《わず》かの間で、また食事に戻ると、四十一のベテラン主婦の顔になる。飯田とは五つ違いで、結婚してもう十六年たっている。 「さて……」  飯田は掛声のように言い、立ちあがった。そのとたん頭が切りかわって、息子の朝飯のことも娘の出がけの挨拶《あいさつ》のことも、遠い別世界の出来事になってしまう。 「行ってらっしゃい」  咲子は顔をあげて言い、食事を続けた。飯田は玉のれんを鳴らして短い廊下へ出、玄関で靴《くつ》をはくと、黙ってドアをあけた。一歩外へ踏みだしたとたん、無意識に今日の仕事のスケジュールをチェックしていた。  私鉄で四十分。地下鉄に乗り換えて二十分足らず。歩いて四、五分。会社へ着いた時間はいつもより六分ほど早く、エレベーターで七階へあがってオフィスのデスクにつくと、早かった分だけ厳しい表情になった。  始業時間ぴったりに印鑑をとりあげ、きのう遅く廻《まわ》って来た稟議書《りんぎしよ》に判を押す。 「伊藤《いとう》君」  飯田は斜め右のデスクに背を向けて坐《すわ》っている課長の伊藤を呼んだ。飯田は部長で、デスクは大きな窓を背にしている。 「君らはこの決裁を急いでるんだろう」  ふり向いた伊藤は、飯田が手にした稟議書に気づくと嬉《うれ》しそうに立ちあがった。 「あ、すみません。すぐ廻して来ます」  伊藤は稟議書を受取ると、急ぎ足でその部屋を出て行った。飯田は椅子の腕木に両肘《りようひじ》を突き、ぐるりと体を廻して窓の外を見た。それは窓というよりガラスの壁と言うべきかもしれない。床のすぐ上までガラスで、となりのビルの中に並んだデスクがまる見えだった。  午後は予定がだいぶあるが、昼前は十一時まで何もなかった。  あのビルに、いったい何人のサラリーマンが入っているのだろうか……。飯田はふとそんなことを考えはじめた。  何人いるか知らないが、そのほとんどは自分より地位が下のはずである。飯田はそう思うと、自分が歩んで来た長い道をふり返り、その年月をいとおしむように数えていた。 「部長」  声に振り返ると、課長の伊藤が戻って来ていて、飯田のデスクの横にある、白いカバーのかかった来客用椅子を引き寄せながら、秘密めかした微笑を泛《うか》べていた。 「K商事の件、お聞きになりましたか」  伊藤が椅子に腰をおろすと、飯田はそのほうへ体を廻し、ゆっくり頷《うなず》いて見せる。白いカバーのかかった椅子は低く、伊藤が見あげ、飯田が見おろす恰好になった。 「聞いたよ。二十七の男だそうだな」 「ええ。まだ平《ひら》だそうです」  K商事が値上りを見越して或《あ》る物質を大量に買占めたのが問題になり、帳簿類が押収されたりしていた。 「どうお思いになります」  伊藤は飯田に意見を求めた。 「K商事はこれまでにも散々あのテのことをやって来たから、まあ、いずれはという気はしていたな」 「でも、その男はどういう気なんでしょう。僕の聞いたところによると、完全に会社と対立してしまっているそうです」 「そうらしいな。辞表を出したとかいう……消費者の側に立って、会社と対決すると言っているらしい」 「そういう場合、どうなるんですか。たとえば僕の部下の一人が、はじめから暴露する気で証拠書類を集め、それを握って会社のやり方を外へ洩《も》らしたら……」 「責任の問題か」 「ええ」 「君も僕も責任を負わねばならんな」  伊藤は首をすくめた。 「でも、注意しても完全に予防できますかね。むずかしいんじゃないですか」 「まず、予防は困難だろうな」  飯田はそう言い、急に鋭い目付きになった。 「そんな気配があるのか」  伊藤は笑った。 「とんでもない。第一、うちはそんなヘマなことしてやしませんよ」 「それはそうだが……」  飯田も苦笑する。 「平《ひら》だから出来る芸当でしょうね」  伊藤は低い声で言った。 「それはそうだ。まだ二十七じゃな……やりかねん」 「ということはですよ」  伊藤はもっともらしい顔になった。 「もしうちが今度のK商事に似た行動を起した場合、平《ひら》の連中に絞ってチェックすればいいということですか」 「まずそれが妥当な線だろう」 「僕はその場合少し気になるんですが、係長とか課長補佐をどう考えればいいでしょう。本当の平《ひら》だけで、係長になればもう安心していいのでしょうか。たとえ係長でも、肩書きさえつけばもう会社をそういうことで裏切る気にはならんもんですかねえ。問題は残ると思うんですよ。現にいまK商事がそれで苦境に陥っているんですから、うちでも研究をはじめる必要があるんじゃありませんか。内々で外部に委嘱《いしよく》するなりして、早急にその問題をマニュアル化してもらえると有難いんですが……」  飯田は苦い顔をした。裏切り社員が出た場合、上司は形式的にもせよ、責任を取らなければならない。だがその予防措置がマニュアル化していれば、きめられた通りのチェックは行なっていたという逃げ道が生まれる。なんのことはない、伊藤はK商事の密告社員のケースに怯《おび》えているだけではないか。 「君は幾つだったかな」 「僕ですか」  伊藤は頭を掻《か》いた。 「もう三十五になりました」 「三十五か」  飯田は伊藤から目をそらせた。いくじのない時代へ半分足をかけていると思った。 「それにしても、割り切れんな。わたしらの世代では想像もつかんよ」  吐きすてるように言った。 「それはそうです。僕らでさえ、今の若い奴《やつ》らのことは理解しかねるんですから」 「たしかに、K商事のやり口はいつも悪《おく》どい。また、今度のようなことは結局国民にツケを払わせることになるわけで、社会主義という点から、許し難い気になるのも判《わか》らんではない。しかし、だからと言って、いきなり不正の証拠を持ち出して自分の所属する企業を告発してしまうというのは、どういうことなのだろうな。わたしにはどうも、短絡している気がしてならん。純粋な正義漢が立ちあがったとはとても思えんのだ」  伊藤は頷《うなず》く。 「僕もそんな感じですね」 「要するに甘ったれているんだ」  甘ったれ、と言ったとたん、飯田の胸の奥に日頃からくすぶっているものから、炎がのぞいたようであった。炎はいちどに大きくなった。 「外に向って会社の不正を暴《あば》きたてることと、内々《うちうち》で姿勢をたださせることと、どっちが大きな努力を要するだろうか。外へ喚《わめ》きたてることのほうがずっとやさしいにきまっている。楽な道を選ぶのが純粋な男だろうか」 「でも、その場合会社をやめねばなりませんよ」  すると飯田は煙草に火をつけ、じれったそうに言った。 「判っとらんよ、君はまだ。俺《おれ》たちの時代には、そんなこと出来はしなかった。就職難の時代なんだ。まず食わねばならん。やっとの思いでもぐり込んだ職場を棄《す》てたら、次はいつ仕事にありつけるか判らなかったんだ。だが今はどうだ。性《しよう》に合った仕事にぶつかるまで、何度でも職場を替えたほうがいいなどと抜かす奴がいるくらいだ。求人難の時代になって、仕事はいくらでもある。あたりいちめんに木の実がぶらさがっていて、探す苦労などありはしない。マスコミが公害だ買占めだと騒げば、尻馬《しりうま》に乗って自分の職場を告発し、恰好よがっている。まるで子供だよ。歌手に憧《あこが》れるミーハー族とおなじことさ」 「なるほど……どうもその二十七の奴のことがひっかかって仕方なかったんですが、そう言われればたしかにその通りですね。実は新聞なんかで英雄扱いされているのが、気にくわなくて仕方なかったんです……。やはり今の若い奴は駄目《だめ》ですね。うわべだけで根性《こんじよう》がない」  お前だって似たようなもんだ……。飯田は心の中でそう言いながら、にこやかに頷く。 「今朝の新聞見たか」 「ええ」 「また赤ん坊がコインロッカーで死んでいたろう」 「見ました。このところたて続けですね」 「K商事の男も、赤ん坊を棄て殺しにする若い女も、根はひとつだ。自分のことばかりで、それ以外のことは何ひとつ判らなくなってしまっている。世も末だ。ひょっとすると、人類はもう滅びかけているのかもしれんぞ」  伊藤は擽《くすぐ》ったそうに笑った。 「まさか」  飯田はむきになって言う。 「本当だ。よく考えて見ろ。極端なはなしが、このあとの世代が子供を生まなくなってみろ。人間はすぐいなくなる。百年と保《も》たんのだぞ。若い連中が今のままだと、めちゃくちゃな世の中が来る」 「終末ですな」  伊藤ははやりのCMを真似《まね》たようなつもりでいるらしく、椅子から腰を浮かしながらニヤリとした。しかし飯田は本気でそう思っているようであった。 「そう。終末だよ、もう……」  伊藤はその声を背に席へ戻って行った。  午後三時半ごろ、飯田は他の部長二人と専務室で会議のようなことをしていた。  ようなこと、と言うのは、専務と部長三人が集まって、ちょっとした問題を討議する為《ため》に二日前からお互いのスケジュールを調整していたからである。だがこの二日の間にその問題の結論は出てしまっていた。  四人が顔を揃《そろ》えると、専務の秘書が紅茶を出す前に会議は終ったも同然になり、あとは紅茶を啜《すす》りながらの雑談になる。三人の部長はほとんど似たような年輩で、飯田はひどくくつろいだ気分になるのだった。 「うちの青木《あおき》課長の下に、篠崎《しのざき》という若いのがいるんだが、知っているか」  東島《とうじま》という肥《ふと》った男が言いだした。みな心当りがなく、首を横に振った。東島は専務に向って言った。 「きのうわたしの所へ抗議に来ましてな」  紅茶のカップをテーブルの上に置き、東島は思い出し笑いのように軽く声をあげて笑った。 「課長の指導が悪いというんだ」  今度は飯田たちに向って言う。 「指導が悪い……」  飯田は眉《まゆ》をひそめた。 「このままでは会社をやめねばならんというのさ。俺をおどしたつもりらしい」 「なぜ……」 「伸びられんというのさ。課長が自分の才能を少しも開発してくれんから……」  専務が噴《ふ》き出した。 「本気で言うのか」  飯田は腕を組み、深刻な顔になった。 「専務、それは本気のはずです。そういうことを言うんです、今の若い連中は」  専務は白けた表情になった。 「困ったもんだ。どうしてそう甘ったれとるのかなあ。それで、どう始末した」  東島に尋ねる。東島は悠然《ゆうぜん》としていた。 「言って聞かせる気にもならんですな。適当にあしらって、あとは青木にまかせました。帰りにどこか飲みに連れて行ったようです」  飯田はわざとらしく驚いて見せた。 「その男はついて行ったのか」 「行ったそうだ。今朝青木がそう言っていた」 「で、その若いのは……」 「晴ればれとした顔で出て来た」  飯田たちは弾《はじ》けたように笑った。 「男と女の見わけがつきにくくなったのは、スタイルばかりではないな。中身まで見境がつかなくなっている。女が、この頃ちっともかまってくれないと言って拗《す》ねるのと同じだ」  専務が言う。飯田は真剣な表情になった。 「才能は自分で伸ばすもの、あれば自然に伸びるものです。それより問題なのは、部長にそういう訴えをするというのは、古い言い方をすれば越訴《おつそ》でしょう。江戸時代の百姓|一揆《いつき》などは、よくそれをやったが、それなりの覚悟をしていたはずです。今は時代が違うし、別に罪だとは言いませんが、嫌《いや》ですなあ。あまりにもイージーだ。甘ったれてる」 「可愛いじゃないか」  専務はまだ笑っていた。 「酒に誘われたらヒョコヒョコついて行って、翌日はケロリとしているんだから」 「可愛いすぎます」  飯田は憮然《ぶぜん》として紅茶に手を伸ばした。 「その男は腹をたてたんだろ」  飯田は東島に言う。 「腹をたてたから課長をとび越して君のところへ来たんだ。そうじゃないか。そういう行動を起す時、男というものは先ざきのことについて肚《はら》をくくるものだ。少なくとも俺なら、その晩課長とは飲みに行かんね」  東島は首を傾《かし》げた。 「さあ。腹をたてていたのかな」  専務はまた笑った。 「世代が違うんだ。我々とはこの中が違ってしまっている」  そう言って、左手の人差指でこめかみのあたりを指さした。 「しかし、将来のことを考えると……」 「その連中が我々の齢《とし》になった時のことか」  専務は飯田を観察するように眺《なが》めた。 「どんな世の中になっているんですかね」 「知らんね」  専務は無感動に言う。 「君は人が好いんだ。だからもう終末だの、今どきの若いもんはだの言わなきゃならん。若い者は若い者でなんとかやって行くさ。その頃我々は死んでしまっているわけだし、手を貸そうと言ったって貸せるわけのものじゃない。それより、年をとってから、あんな連中の世話にだけはならんよう、今から準備しておくことだな」 「世話になど誰がなるもんですか。そうなったら自殺したほうがましだ」  東島がそう言って笑った。話題はゴルフに移り、会議らしき集りは、いつ果てるともなかった。  その夜九時半頃、飯田は家へ戻った。私鉄の駅から歩いても、八分の距離で、途中二か所ほど、有刺《ゆうし》鉄線で囲った畑が残っている。  ドアをあけるとテレビの音がしていた。妻の咲子と娘の静江が珍しく迎えに出て来た。 「おかえりなさい」  咲子は抑揚のない声でそう言い、静江の肩に両手を置いて、靴を脱ぐ飯田を見つめていた。 「何かあったのか」  飯田は咲子に尋ねた。 「岡野《おかの》さんが亡くなったんですって」  飯田は息をのんだ。 「いつ」 「一時間ほど前に電話で……奥さんだったわ」  飯田は無意識に、脱いだばかりの靴を見た。 「行かなければ……」  岡野は大学時代からの友人であった。 「ご飯は」 「すませて来た」  静江が気をきかせて靴の向きを直してくれた。 「帰れんかも知れん」  飯田は靴をはいた。 「それにしても、このごろみんなよく死ぬわねえ」 「うん」 「あなたも気をつけてよ」  咲子の声をうわの空で聞き、飯田はドアをあけた。 「パパ、あたしの分も拝《おが》んで来てね」  静江がその背中へ声をかける。岡野に可愛がられていたのだ。  岡野の家は飯田の降りる駅から、ふた駅ほど東京寄りにあった。毎朝利用する駅のホームも、時間が違うとどこかよそよそしく、飯田は少し背を丸めて電車を待っていた。  この一、二年、咲子の言うとおり、随分知人が死んで行った。会社の同僚、先輩から、得意先や出入りの業者、古くからの友人たち……。俺もそういう年代にさしかかっている。飯田は岡野の顔を思い泛べながらそう思った。  電車に乗り、ふた駅先で降りて、暗い路を岡野の家へ向っていると、急に涙が溢《あふ》れて来た。国防色のズボンをはいた、岡野の姿を思いだしたからであった。はじめて岡野に会った時、飯田はそのズボンと、テカテカにみがきあげた軍靴《ぐんか》に威圧されたのを憶《おぼ》えている。物のない時代でも、精一杯のお洒落《しやれ》をしていた男だ。侠気《きようき》があって豪放で、いつも仲間の世話に駆けまわっていた。 「今ではお前みたいな男は、もうどこにもいなくなってしまったよ」  飯田は暗い路でそうつぶやいている。  岡野の家は飯田の家よりひとまわり半ほど大きかった。かなり広い芝生の庭があり、大きな犬を飼っていた。はやばやと夜更けの感じになってしまう典型的な郊外の住宅地に、喪《も》の家だけがあかあかと光を溢れさせている。  三台ほど客の車が玄関の外の通りに並んでいて、ドアをあけるとすぐ岡野の妻が現われた。 「いつです」  飯田はいきなり尋《たず》ねた。 「七時半ごろなんです」  岡野の妻は膨《は》れぼったい顔をハンカチでおさえた。 「なんだか気分が悪いと言って、いつもより早く帰って来たんですけど、それでも一杯やるんだとお酒をひと口飲んだとたん、急に苦しみだして……」  飯田は奥の六畳へ案内された。線香の匂《にお》いがたちこめていた。  岡野の葬儀がすんだ翌日の夕方、飯田は課長の伊藤と、日本橋のビルの地下にある、行きつけの店で飲んでいた。  辛口《からくち》の日本酒を早いピッチで飲み、酔いがまわり始めると、飯田は次第に不機嫌《ふきげん》になって行った。 「腹が立って仕方なかった。まったく何てこった……」  親友を亡くして元気のない顔をしていた飯田を、慰める気で飲みに誘っただけに、伊藤は徳利を差しかけながら、もっともらしい顔で頷いている。 「そりゃ、気持は判らんでもない。死んでいった父親をしのんで、一夜ひそかに笛を吹き鳴らすというのは、ちゃんと絵になっている。昔から、そういうことは幾らもあったろう。だがそれは笛だからいい。昔と今とは道具も変ったから、楽器が変っても一向におかしくはない。しかし、せめて横笛かギターくらいでいて欲しいもんだ」  伊藤が素木《しらき》のテーブルの上へこぼれた酒のしみを、使ったおしぼりで拭《ぬぐ》いながら軽く笑った。 「ドラムではねえ……」 「そうなんだ。親父の死んだ晩に太鼓を叩《たた》くとは何事だ」  飯田は厚手のグイ呑《の》みを一気に呷《あお》る。 「二階でひと晩中ドカドカやっているんだ。母親がいくら言ってもやめようとしない。しまいに見かねて俺が二階へあがったよ。岡野というのは小さいながら繊維会社の社長だからな。時間がたつにつれ、通夜《つや》の客はどんどん増えてくる。儀礼的に来る者もないことはないが、もともと通夜に集まるのは、故人を本当におしんで来る者が大部分だろう。そういう客の頭の上で太鼓を鳴らし続けるんだから、まったく……」 「高校生でしょう」 「ああ。高校三年だよ」 「で、部長の言うことも聞かんのですか」 「うん。ヘッド・ホーンというのか……通信士がかぶる奴……それで音楽を聞きながら、ドラムを叩いている。俺は腹が立ったからむしり取ってやった」 「で、どうしました」 「ああいう時の若い奴の顔ってのは、実に嫌なもんだな。まるで火星人かなんかのように、別な世界から来たというような顔をしている。目を見たって涙なんか出てやしない。とがめるようにジロッと見て、すぐそっぽを向いてしまう。文句があるんなら相手の目を睨《にら》みつけるのが男だのに」 「どういう気持でドラムを叩いていたんでしょうね」 「僕のこの不安感なんか、あんたには判らないでしょうと言いやがった」 「不安感……」 「そうだ、不安感だ。驚いたね。正直なのを通りこして、あれじゃ恥しらずだ。父親が死んで、この先どうなるか判らないという不安なんだそうだ。それをまぎらすためもあると言いやがる」 「それでドラムですか」 「そうさ。半分は父親の死を自分なりにいたんでいるのだが、そればかりじゃないと……」  伊藤は飲む手をとめ、考え込んだ。 「たしかに、頼りにしていた父親をなくしたら、これからの生活に対する不安はあるでしょうな」  飯田はテーブルを叩いた。 「父親の死んだ晩だぞ。不安があろうがなかろうが、高校三年にもなったら、嘘《うそ》にもキリリとして見せて、客の手前も家族の為にも、長男たるもの今後は自分が立派に家を支えて行くという態度を示すのが当り前じゃないか。俺は呆《あき》れて物も言えなかった」  飯田は本気で涙ぐんでいる。 「客に悪いからやめてくれと、した手に出てたのむしかなかった。ところがどうだい。自分の家で何をしようと勝手だと言いくさった。自分の家には違いなくても、ああいう時には一時的に公共の場……会場になるってことが判らんのだよ。恐ろしいもんだ。俺はひと晩中頭の上で鳴り響く太鼓の音を聞きながら、本当にもう世の中は終ったんだという気がして、情けなくて仕様がなかった」 「例外ですよ、例外……」  伊藤は励ますように言った。 「そんなこと、忘れたほうが衛生にいいですよ」 「衛生か……」  飯田は伊藤を見つめた。 「そうだ。あれはうす汚ないもんだ。人情も思いやりもなくなった、えせ人間だ。まったく、衛生によくない」 「どうです。河岸《かし》を替えて、もっと衛生にいい酔い方をしませんか。部長のように世の中をモロに見すえる人は時々そうやって酒で洗わないと保《も》ちませんよ」 「そうだな。俺は少しやかましすぎるのかな。だとすると、君らは毎日|厄介《やつかい》な上司とつき合っていることになるな」 「とんでもない」  伊藤は伝票をとりあげて言った。 「僕らだってやはり昔風の折目正しいくらしのほうがいいんです。部長は或る意味で貴重な存在です。いいお手本にさせてもらっているんですよ」  伊藤は畳敷きの小間を降りて靴をはきはじめた。 「新宿《しんじゆく》へご案内しますよ」  岡野が死んで以来、飯田はいっそう不安感をつのらせていた。何もかもが終末の様相を示しているようで、恐ろしいくらいであった。  ことに若者たちの姿には、どうにも救いようのない生命の退潮を感じてしまう。  バスや電車に乗ると、飯田はいつもイライラさせられる。ラッシュ時の乗物はそうでもないが、ややすいている時間の乗物には、どうにも我慢できない光景がつきまとっているのであった。  それは、乗客たちの座席のとりかたであった。十人坐れる所へ精々七人くらいしか坐っていない。言い合せたように、お互いがかなりの間隔をとって坐り、つめ合って坐るということがない。ことに若者たちは、はじめから他人も坐るのだという感覚に欠けていて、実に無造作、無計算にいいかげんな坐り方をする。明らかに二人分の座席を占領しているくせに、膝《ひざ》送りにつめて来られると不機嫌な顔で形ばかり坐り直してすませてしまう。  バス停で行列をさせても、きちんと並ぶことがない。豊かになって、順番に乗らなくても、いくらでもバスが来るせいだろうか。  子供たちの中に、雑巾《ぞうきん》を絞れない者が出はじめているという。昔は手拭《てぬぐい》や雑巾を堅く絞れないのは、精薄児にきまっていたのに。  若者が歩かなくなったことはことにはなはだしい。昔風の距離感で言えば、ほんのふた停留所くらいの所を、平気でタクシーをとめる。  新入社員に封筒の宛名《あてな》書きをさせると、一気に五十通も書けるのはまれで、十通か二十通で背のびをしはじめ、二十通目にはかならずと言っていい程便所へ立つそうだ。まるで根気がなくなっていて、仲間がみんなそうだから、自分に根気が欠けていることを自覚さえしていないらしい。  社員食堂の、たかの知れた丼《どんぶり》の飯を残してしまうのも若手社員だ。猫の飯程度しか食わなければ、根気もやる気も出るわけがない。それに、酒を飲む青年が激減している。酒は好きだというから、飲むのを見ていると、ウイスキーの水割りなどを、実に上品に、いつまでも減らさないで手もとに置いている。飯田たちのそのくらいの年頃には、ゆうべどこで誰《だれ》と飲んだかということより、何をどれくらい飲んだかという方が問題であった。  ガブ飲みする時期があり、何度も吐いて、そのたび少しずつ酒の飲み方を憶えたものである。だが、今の若い男で、小間物《こまもの》の店をひろげるのにはとんとお目にかかれない。  赤線がなく、トルコとやらにもそうひんぱんに行ってはいないらしいのに、脂《あぶら》の落ちた小ざっぱりした顔でいるのも、飯田の不安の種であった。もしかしたら、昔の自分たちほど性欲も強くないのではないかと疑うのだ。  過激派という学生たちにしても、主義主張のことは別にして、昔の自分たちなら、機動隊の隊長とか、警視総監とか、総理大臣とか、そういう目標に血道をあげるはずであると思った。  それが仲間|喧嘩《げんか》ばかりしていて……飯田にはひとごとながら歯がゆく、女同士のいびり合いに思えて仕方がない。 「世の中を変えるのはみんながやってくれる。自分たちは変りつつあることを見せつけるために、ときどき火花をたててみせればいい……今の革命家なんて、そんな他力本願でいるんじゃないのかね」  飯田はある時、内ゲバの記事を見ながらそう評した。  死んだ岡野の妻が訪ねて来た。 「実は登《のぼる》のことでお力を借りたいんです」  日曜の午後、岡野の妻は飯田の家のソファーに浅く坐って、顔にハンカチをあてた。 「どうしたんです」  飯田は通夜の晩のドラムを思いだし、うんざりした顔になった。 「恋人がいるんです」 「女が……」 「ええ。以前からお付合いしてたんですけど、その子のところへ行ったきり、帰らなくなっちゃったんです」  妻の咲子はその話を飯田の前に聞かされているらしく、お茶を出したきり寄りつこうとしない。 「早すぎるな。高校三年でしょう」 「私が言ったんではまるで駄目なんです」 「場所は判っているんでしょうね」  岡野の妻は泣きながら頷いた。 「つまり、同棲《どうせい》をはじめたわけか」  飯田はつぶやいて窓の外を見た。咲子がとってつけたような恰好で小さな庭を掃いている。 「偉いもんだな。生活費や学資も自分で稼《かせ》ぎ出す気になったんだから」 「とんでもない……」  岡野の妻はいかにも情けないといった顔で首を振った。 「うちにいても、大学までは出すつもりでいるのだから、その分は毎月銀行へ振り込んでくれって……自分の口座番号を連絡してよこすんです」 「莫迦《ばか》な……」  飯田は腹の中に火がついたような感じになった。 「父親が死んだばかりだっていうのに」 「それなんです」  岡野の妻は両手を膝の上で握りしめた。 「その子をお嫁さんにする気なら、反対はしません。とにかく高三ですから、早すぎるのはもちろんですが、どうしてもというのなら私もあきらめます。でもそうなら、せめてうちで暮してもらわなければ……」 「とんでもないですよ、そんな」 「父親が死んですぐ家を抛《ほう》り出してそんなことをしたんじゃ、世間様に通りません。私たちのことより、本人の為にならないんです」 「いったいどういう気なんだ」  飯田は岡野の妻の言葉を聞く気をなくしていた。母親の弱気など、この際無用だと思った。死んだ岡野のかわりに、張り倒しても連れ戻そうと決心していた。 「それで、場所は」 「高円寺のほうです」 「女はどんな」 「近くのスナックで働いているそうです。鳥取のほうの生れで、登よりひとつ年上なんです」  腹が立って仕方なかった。大学生でも許せないのに、高校三年で、その上毎月母親に金を銀行へ振り込ませようとは……。  飯田はたまりかねて立ちあがり、窓をあけて怒鳴《どな》った。 「あまったれんなっ……」  咲子がびっくりしてふり返った。  うす汚いボロアパートを想像していたのに、たずねあてた先は、一階が喫茶店と洋品店になった、鉄筋の四階だての中にあった。  三階の五号室のドアに、木元《きもと》かおる・岡野登と、ふたつの名前が書いてあった。紙も字もまだ新しい。ドアの横の壁のボタンを押すと、すぐドアが内側へあいた。 「だれ」  木元かおるらしい若い女が言った。 「登君はいますか」  女は一度まばたきをし、 「だれ」  と、もう一度尋ねた。飯田は面倒になって、ポケットから名刺をとりだして渡した。 「登くん。飯田っていう人……」  女が言うのが聞えた。  部屋の中で、だいぶ長いことごたごたしていたが、やがて長袖《ながそで》のシャツの上へ毛糸の半袖の胴着のようなものを着た岡野登が、青白い額に長い髪をたらして出て来た。 「来ると思った」  登はポツンとそう言った。 「面倒臭い話だろ。喫茶店で聞くよ」 「ここじゃ駄目なのか」 「人のうちだもん。まだ金送ってくんないしさ。俺、権利ないんだよ」 「理屈だな。それじゃ喫茶店へ行こう」  飯田は先に立って階段をおりた。 「あそこの家賃はいくらなんだ」 「七万二干」  飯田は立ちどまり、ふり返って登を見つめた。 「七万二千だって」 「うん。まあまあだろ」 「どうする気だ、そんな部屋借りて」 「彼女、去年からあそこに住んでる。僕が払うようになっても、全部出すわけじゃないから……今どき風呂つきのアパート探すなら、三万以上は覚悟しなきゃね。だから、僕が半分だしても損はないよ」  飯田はため息をついて階段をおりる。 「自分で稼ぐんじゃないから気が楽だ」 「嫌味ばっかりだね、さっきから」 「だってそうじゃないか」 「うちにいたって金はかかるんだよ。外で暮すからって、余計にくれなんて言ってないじゃないか」 「女の家へころがり込んで恥ずかしいとは思わないのかね」  飯田はつとめて冷静に言った。 「金をちゃんと出すもの」 「どうせやるんなら、自分で稼いで女の面倒を見たほうが……」 「男らしいって言うんだろ。あんたとおやじの話って、いつもそんなことばかりだった。でもさ、男らしいって、何なの。女に金やることかい」  一旦《いつたん》ビルの外へ出て、一階の喫茶店へ入りかけると、登は立ちどまってついて来ない。 「入らんのか」 「やだよ、そんな店。あっちにもっといい店がある」 「どこだっていいだろう」 「金払うんなら、自分のフィーリングに合った店のほうがいいよ」 「フィーリングか」  飯田は苦笑して登の行くほうへついて行った。着いたのは狭い横丁を曲った、うす汚ない小さな店であった。 「こんなところじゃ話はできん」  店へ入るやいなや、飯田は大声で怒鳴った。壁が震えるほど、ステレオのボリュームをあげていた。  登はレジの娘に片手をあげ、かまわずテーブルにつく。ロックのビートに合わせ、膝を動かしている。 「お母さんたちをどうする気だ」  飯田は坐りながら大声で言った。 「俺はまだ学生だもん。金も稼げないし、いたっていなくたって同じさ。それにいたっていなくたって、かかるものもおんなじだろ。だからどこで暮したっておんなじさ」 「木元君と結婚する気か」 「結婚……」  登は笑い、注文を聞きに来た若い長髪の男に、 「こぶ茶」  と言った。 「結婚なんかしないよ」 「だって一緒に暮す気だろう」  登は手を振った。軽蔑《けいべつ》の色が眸《ひとみ》に泛んでいた。 「同棲だよ。結婚なんて……」 「じゃ、彼女はどうなるんだい」 「どうにもならないよ。僕と同棲するだけさ」 「スナックで働いてるにしては、高い家賃の部屋だな」 「スナックは嘘《うそ》。おふくろに言うとまた面倒だからさ。本当はクラブのホステスやってる。でも、イラスト描くんだよ。才能あるんだ。そのうちイラストだけで食えるようになるだろ」 「君は将来どうするつもりなんだ」 「こんな店やりたいな。東京じゃないとこで。あの辺に小さなステージ作っちゃってさ。自分のバンド持って……でもテレビなんか出ない。自分の店だけでしか演《や》らない。だから客も来るし……」 「音楽家になるのか」  登は首を横に振った。 「店を持って、時々気が向いた時自分のバンドでだけ演るのさ」  飯田は自分でも意外なほどの力をこめて、登の横ッ面を平手《ひらて》で撲《なぐ》った。 「おやじが泣いてるぞ」 「暴力をふるうなんて、卑怯《ひきよう》だ。男らしくない。僕は正々堂々と対話しようとしてるじゃないか」 「莫迦《ばか》。何が対話だ」  飯田は自分の手の指が震えだしているのに気づいた。 「僕は僕のしたいことをしてるだけだ。あんたや、その他の人にも迷惑なんかかけていない。だいたい、戦争した世代ってのは、他人のことばかりに興味持ちすぎるんだよ。だからしまいには戦争なんかはじめるのさ」  登は唇《くちびる》の端から血をのぞかせ、それを丁寧にテーブルの上のナプキンで拭《ぬぐ》った。 「お前の将来のことを……」 「そんなこといいんだよ」  登は仕様がないという顔で飯田を見た。 「いったい。僕とあんたと、どこでつながっているの。どこにかかわりがあるの」  飯田はぐっと詰った。 「お母さんが泣いてたのみに来られた」 「お袋にだって迷惑かけちゃいないよ。いくら言ったらわかるのかな。僕が一人前になるまでにかかる費用は、お袋だって承知してる。それ以上僕は要求してないし、だいいち外で暮したほうが、僕自身楽しいし、それにキャリアがついて将来のためでもあるんだ。つれ戻して過保護な目にあわせようって言うほうがおかしい。言うとおりすればしたで、お前らは過保護だ、甘ったれてる……そう言ってけなすんじゃないか。それから、これはお袋にもよく教えてやってね。僕らは結婚なんてしないからって。そんな莫迦なことしないよ。彼女だって僕と結婚しようなんて思っちゃいないさ。そんなこと、もし僕が言いだしたら、彼女きっと別れるって言う。莫迦にされちゃうよ」  こぶ茶の湯呑みがふたつ、テーブルの上へ置かれた。飯田は大声を出し続けて喉《のど》が乾き切っていた。  こぶ茶は案外うまかった。 「男と女が一緒にいれば、いずれ子供が生れるぞ」 「それはあんたたちの世代のことじゃないか。愛情もないのに平気で写真一枚の見合結婚なんかして、どんどん子供作っちゃう。僕ら違うね。愛情があったら子供作らないように気をつけるよ」  ステレオの烈しい音に、飯田の頭はガンガンしていた。目まいがしそうだった。 「おやじと二人で、酒飲みながらよく終末だなんて話してたけど、終末なんて来ないさ。あんたたちの世代が年とって、一人もいなくなったら、物凄《ものすご》く自由な世の中になると思うな。人のおせっかいなんか焼く人間は一人もなくなっちゃってさ」  登は撲《なぐ》られた頬《ほお》を撫《な》でながら笑った。底抜けに明るい笑顔であった。近くに積んであった雑誌の山から一冊引っぱりだし、パラパラとページをめくった。 「これに書いてあるの、読んだ……」  そう言って自分の胸の辺りに拡《ひろ》げて見せた。  ——中年層の危機。公害と寿命の意外な因果関係——  そういう大見出しがついていた。 「成長期に粗食して育った人は、光化学スモッグに弱いんだって。それに、しょっ中人に気ばかり使ってると、PCBがうまく体の外へ出ないで、脳のほうに溜《たま》っちゃうんだってさ。それから、有機水銀なんかは、若い頃過激な運動してると、骨や筋肉にすぐ影響するんだそうだよ。光化学スモッグは、小学生くらいの子供たちと、二日酔いの人には一番毒で、だから、いつもお酒のんでるのはよくないんだって」  飯田は烈しいギターの響きの中で、目まいを感じていた。体の重心を失い、水の入ったグラスを手に、ぐらりと体を傾けた。 「どうしたの」  登が笑いながら言った。 「だからさ、終末終末って言うけど、僕らの終末なんかじゃないんだよ。あんたたちの世代の終末なんだよ、きっと……」  飯田は椅子から床《ゆか》へころげ落ちた。  血圧……と倒れる時そう思った。  意識が遠のき、ひどい吐気がした。……若者は酒を飲まない。若者は体をきたえない。小食で馬力がない。人に対する礼儀を弁《わきま》えない……。だから長生きする。そう思った。  飯田はしたたかに吐いた。脳溢血《のういつけつ》の典型的な症状であった。やがて救急車が来て、その体を運んで行った。  走る救急車の中で、飯田はかすかに意識をとり戻し、気ぜわしげなサイレンの音に混った、自分自身の声を聞いたように思った。 「おまへたちの終末。おまへたちの終末……」  なぜかそれを、飯田は旧仮名遣いで意識していた。  本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品の文学性などを考慮しそのままとしました。 [#地付き](角川書店編集部) 角川文庫『都市の仮面』昭和54年8月30日初版発行